2018年5月30日水曜日

今日の想い 971

三原駅で降り立つとそのまま南下していく。五分もせずに三原港に着く。傘をさそうかどうか迷い迷い来たが港に着くと途端に大降りになった。簡素な時刻表を眺めていると中年の女性がどちらに?と声をかけるので、行き先を告げると券売機のボタンを指示して奥の方に消えていった。取り立ててそこに行きたいわけでもなかったが、宿からの近場で何となくその島にある美術館に行ってみようと思った。しかしこの天候や海からの独特な臭いの待合室、そして等閑な係りの女性の応対になんか拒まれているようで少し萎えたが、それでも気分を持ち直して乗船した。内海は波もなく実におとなしい。小雨に煙った海面を、船は滑るように進んでいく。30分間水面を見つめて、12時の定刻に船は生口島に接岸した。桟橋に降りると雨もやんで空も明るくなっていた。平日の日中、観光客も見当たらないし本土に働きに出ているのか島の人たちも見えない。結構な賑やかさを思っていたから拍子抜けしてしまった。狭いシャッター通りを半時間かけて歩くとやっと美術館に到着した。さして絵画に造詣が深いわけでもなくさほど関心もないが、この島や瀬戸内の風景を愛した作者の作品を見れば、教えられることもあるかとは思った。岩絵具で描かれた大作が広い館内に贅沢に展示されている。作品の多くが、説明にラピスラズリとあった絵具を広いキャンパス一面に施されていて、美しいという表現より日頃味わえない感情を覚えると言った方が当たっている。それは幼少の頃、月夜に照らされた風景を見ながら、寺からの帰り道で味わった感情とよく似ている。月の光は青い。青くて明るい。風景や物の裏の部分を照らし出す明るさだ。現代人は陽の部分への意識に躍起になってきたから陰の部分を蔑ろにしている。陰の部分に意識の光をあてることでこそ陽の部分の本質に迫られる。(続く)

2018年5月27日日曜日

今日の想い 970

私は日本にいる。私は私の思うところの人生の最後をかざろうと今準備している。他から見れば私の行動は不信仰に思えるのかも知れない。しかし他がどう思うかが問題ではなく、私自身が私を納得させる道を歩もうとしているかどうかが問題だ。天の道理を言うなら、今の今まで人が言う天の道理ではなく自分が信じるところの天の道理に生きてきたかという問題だ。人の道理、この世の道理を外れることが天の道理に適うことだと言わんばかりに歩んできたが、その私の今までの歩みは報告に耐えるものだろうか。これだけ献金しました、これだけ先祖祝福をしましたと言えることが天に積む宝としての実績報告足りうるだろうか。420家庭、430家庭の伝道、それは数合わせの話なのかそれともそれだけの家庭の霊的責任を持つという話なのか一体どちらなのだろうか。どんなに原理を語ろうとも親が納得して原理の神様にひれ伏すなど先ずあり得ないだろう。なら親が納得して認める形を差し出すのが近道だと私は思う。先祖祝福も祝福を与えて終わりなのではなく、いかに愛し屈服させ自らの天的使命の援護射撃となし得るかだろう。これから厳しい世情に突入していく。第三次世界大戦はすでに始まりつつある。人的被害がどうなるかは別として世界はガラガラポンの状態になりその混沌の中から新しい覇権が台頭する。おそらく今の私達はアメリカ一辺倒だろうけれども中国やロシアの力を見くびってはいけないし神様は中国やロシアの中から新しい覇権の勢力を創造されるかも知れない。日本は本来産み出す位置にいる。何を生み出すかは日本の精神に因っている。北の首領でさえ日本が抱えていた朝総連出の母から出ている。詳しくは記さないが未来への動向や動静が見えてない時点で世界摂理から外されている。霊的見地に立てる者は見通せて当然の話だからだ。先祖祝福の代数をこなすのも大事かも知れないが、先祖が立つなら自分も立つだろうし使命や願いが何かも理解して当然だろう。とにかく後天時代を生きる食口に必要なのは目覚めることだ。意識の光、意志の光を照らし出すことだ。蛹(さなぎ)を抜け出さない食口は血統圏からずれていく。

2018年5月22日火曜日

今日の想い 969

私達は何をして地上の歩みの勝利とするのだろうか。かたくなに自分の思うところの信仰を全うすること?御父母様の願いにこたえること?信仰を全うするにも願いに応えるにも意志が必要だ。本当に自らの意志で信仰を立て、本当に自らの意志で願いに応えているのだろうか。意志のない自分で居続けてきたことを許していないだろうか。私達はこの意志という魂の力を今こそ発揮しなければ、後天を生きていく信仰も願いに応える自分も用意できない。魂の力、作用として知情意があることは食口であれば皆知っているが、この世の人間であれば思考と感情以上に意志の力でもって生活しているのに対して、食口は原理から入って堕落ゆえの自己否定に意志の力を注ぎ込んできたために生活の力、地に足をつけた力が不足している。自己否定と言いなりになる事とは異なるにもかかわらず、言いなりになる事で自己否定したつもり、信仰を備えているつもり、天の願いに応えているつもりになっている。私達の現状を論理では説明できない今だからこそ、そして私達の注いできた情のやり場が失せている今だからこそ、私達は今までに隠し持ってきたそれぞれの意志の光をかざし、意志の力を発揮すべきだ。それこそが後天時代を生きる第四アダムであり、祝福家庭としての誇りでもあり、証しにもなり得るはずだ。あなたは今まで何をしてきただろうか。地上天上天国の夢だけを思いながら、しかし何の結果も爪痕も残せず今に至ったように、復帰され信仰の光を得た当時の気分だけを抱いて今まで生きてきたように、これからも同じように惰性で生き続けるのだろうか。その延長線上に何某かの奇跡が起こると期待しているのだろうか。それは空を見上げて再臨を待ち望む者達と何ら変わらない。あなたの意志の光を取り出し、意志の力を発揮しない限り何も起こらない。そして早々と地上を去る日が盗人のようにやってきて、言い訳だけを胸に抱いて霊界に赴く。

2018年5月4日金曜日

今日の想い 968

御母様がラスベガスに来られた折、御母様の元に呼ばれたアメリカの水産摂理の責任者は勿論中心者だが、しかし実は私達が認めていないもう一人の食口がその場いて、この二人で御母様のお話しを受け取められた。今では中心者はどう思っておられたか知る由もないが、私としてはそれが偶然か成り行きかに関わらず、現に二人で受けられた事実に天の願いの背景を垣間見た。彼は今まで本部とは距離を置かれ、本人の信念と信仰のもとビジネス摂理を進めてこられた。本流である私達は彼をはぐれ者として見ていたし、中心者も彼に同調してしまえば組織は崩れてしまう。しかし今現在を切り取ってみれば彼はそれなりに売り上げも増やしてきたし店も広げてきた。常に新しいものへの創造は欠かさなかった。一方で私達本流は時間が経つにつれて店舗は減り続け各店舗の売り上げも減り続けた。何軒かは新たに出しはしたが資金を失っただけで何の結果も残せずに終わってしまった。そして今の勢いだけを見れば、向こうに旗が上がることは私達の誰もが認めるところだ。御母様の前に呼ばれた中心者に従う私達はアベルであり、一方のその場に居合わせた彼はカインだ。そしてアベルとカインが一つになることが天の願いだ。結果を残せずに今に至ったとしても、天を想い摂理に関わってきた今までの心情の蓄積は残っているはずだ。しかしこの願いがわからなければ、流してきた汗と涙を地に落とすことになる。犠牲を犠牲として天が取ることができなくなる。御父様は真の父母の位置で常にアベルを立ててこられたことは間違いない。しかしそれはカインを否定することではない。カインを捨ててこられた訳ではない。アベルを立てられながら、しかしその意味はカインを抱きカインを連れて共に父の前に出ることを願ってこられた。アベルの失敗は父の心情を理解できず、父の心情を相続していないことが失敗に流れてしまった。私達は御父様御父様と言いながらカインの存在を否定してきた。それは個人としてのカイン的思いから始まり、あらゆるステージでカイン的存在を否定してきた。カインを連れてではなくカインを置いたまま、天国を築こうとしてきたし自分達だけで天国に入ろうとしている。その結果が私達の今の惨憺たる状況だろう。天はカインに悔い改めを求めたが、もしアベルが父の心情を理解し、カインを追い込んだ責任が自分にあることをカインに代わって悔い改めていれば、エデンの園の殺人事件は起きなかったはずだ。