2019年1月16日水曜日

今日の想い 1032

イメージとして捉えている理想世界を壊す必要がある。人類一家族の言葉は神の理想として正しいが、捉えているイメージは壊して幾度も修正し直さなければみ言葉としての人類一家族理想には近付けない。言葉は与えられたけれども捉えているイメージは言葉との距離がある。言葉を理解するとは、イメージを壊し続け修正し続けて言葉にどこまでも近付けることだ。昔の私は受け取るみ言葉で短絡的なイメージ形成をなしてしまって、その権威に屈伏し従ってきた経緯がある。要するにみ言葉を受けて勝手に捉えるイメージに圧倒されたから、献身もし摂理の願いに応えるべく絶対服従してきた。復帰される世界は愛の世界だとしてもイメージとしては共産国家のような一党独裁か真の父母が立つ王政復古のイメージが強かったし、そのようなイメージを理想と捉えて摂理に歩む意志とした。しかしその理想社会のイメージは教条主義的ではあっても自由主義的ではないことに次第に気付いていく。愛の本質を捉えるとすれば人間に与えられている責任分担という自由配慮の域があればこそ問われるものだから、全てが取り決められている世界が愛の理想世界とはならないはずだ。人類一家族は家庭理想の世界化ではあるけれども、家庭には様々な家庭像があって祖父母がいて父母がいて子供がいるという決められた家庭像を誰もが受け入れる訳でもない。一夫多妻の家庭もあればシングルマザーという家庭もあるし、さらにLGBTの複雑さをどうするのかとなるとそれは神の願いではありませんと一蹴するしかなく、納得させられる論理も感情も私達の中には持ち合わせていない。教会はあまり触れたがらないが生まれ持った性への方向性として既にあるものだから、たとえ原理を受け入れるとしても複雑な問題であるのに、未だに教条的な縛りの域を出ない。今はそういった者達は切り捨てるしかなく私達の原理の理解ではこの問題に対して無力に近い。私達が天の心情を霊的血統として相続した群れであるなら、誰一人真の愛に触れずに救いから漏れる者を出すべきではないだろう。その為には私達の教会が教条主義から脱しない限り真の愛の群れとはならない。真の愛を享受する群れではなく、真の愛の開拓者であってこそ御父様に顔向けできる。教会内のごたごたに翻弄される暇があるなら、社会の様々な問題をどう解決していくべきか、そこに本腰を入れるべきだ。天国に入ろうが地獄に落とされようが、霊界がそういった教条主義なら霊界さえも真の愛で立て直すべきだ。

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