2019年3月28日木曜日

私的理想と公的理想

誰でもそれ相応の願いがある。それは真の父母を受け入れている食口だろうが原理も知らないこの世の人たちだろうが同じだ。しかし私達の願いの問題は、より公的なものを優先すべきだという原理観が働いている願いだということだ。それは自らそうしたいというのとは異なり、そうしなければならないという教条的な枷だ。教条的なものは願いとは言わず枷だ。本来公的私的とすみ分けできるものではなく、一つの願い、一つの理想の中に公的意味合いもあれば私的意味合いもあるはずで、しかし私的な側面だけに意識を集中させれば必ず行き詰まってしまうし、公的側面だけに意識を集中させても同じように行き詰まってしまう。食口は個人的に金持ちになってひと財産築いた者も少ないし、摂理を力強く牽引して目に見えるほどに公的に貢献した者も少ない。公私の両側面がバランスよく大きくなっていくということに気付けないからだ。大きな勘違いは自分の体であれまた内的な自分である魂であっても、それもまた公的側面があるということに気付かない。食欲であれ性欲であれ公的側面があるにもかかわらず、私的欲望は悪だと決めつけてしまっている。性欲イコール罪ではないし、様々な個人的欲望、願望イコール罪ではない。より公的に生きる存在は私的な面でもそれに応じてしっかりと生きる。個人的欲望願望の大きい者は公的にも大きな理想を持っている。公私は相反するものではなく、より公的に生きればより私的にも充足するというウィンウィンの関係にあるべきだ。そういう意味でより高い位置にある者がより受け取り裕福な生活を送るのは当然であって、それを否定するのは反ブルジョアを掲げる共産主義者だ。私たちの中にも多くの共産主義者がいて中心者に対して貰いすぎだと批判する。Oの中にはその大きさに応じてXが入るというOXの哲学は後天時代に於いては特に理解し学ばなければならない実践的み言葉だろう。

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