2019年8月13日火曜日
正午定着の私になる
聖和されて七周年を迎える。たとえ御父様が聖和されても、何某かの目に見える導きがあると信じて暗闇を模索してきたのは私だけではなかったはずだ。しかし聖和式に参加しても、基元節を迎えても、喪の期間を超えても、それでも期待していたような奇跡的導きは見いだせずに7年目を迎えた。先天時代と後天時代は明らかに異なる。いや、ひょっとしたら後天時代に未だ入りきれずに、手前でその入り口を探し出せずに模索し続けているのかも知れない。終末時代の歩みは、特に基元節の年月日を宣布されてそれに向かう歩みは、御父様の一言一句も漏らさずに受け取ろうと必死だったし、そうでなければ取り残され置いて行かれてしまう焦りもあった。御父様は食口にとっては肉体を持って生きる神様だった。まさしく実体み言葉であられた。しかしその太陽存在が一瞬で消え失せた。そして数年を経て、もはや御父様に代わる太陽存在を外界に求めるのは筋違いである、ということを認めざるを得なかった。それでも未だ外に求めようとすれば、御子女様であろうが御母様であろうが或いは何であっても、自分の外側に求める時点で偽りの道であるか、或いは良くて遠すぎる回り道でしかないだろう。イエス様が御国(天国)はあなた方の只中にある、と語られ、ひたすら外界に天国の出現を見出そうとしてきた信仰をものの見事に崩されて、いや天国はそれぞれの心の中に出現すると言われてイスラエルの民は呆気にとられたように、外界におられた御父様に代わる存在を御子女様等の、やはり外界に求めてしまうのは先天から後天への歴史の移行に反していて、本当は内界に、それぞれの良心に御父様に代わる太陽存在を見出すことこそが願いのはずだ。それは信仰の裏表の逆転であり、光を外から内に届けていたのを逆に内側に光を放つ恒星を見出して内から外に届けるという、まったく180度異なる逆転のベクトルを私という小宇宙に起こさなければならない。それに耐えられるほどに私の良心は私の中に明瞭に現れているかという、良心革命が為されなければならない。御父様が言われた良心に対する絶対信仰絶対服従絶対愛が良心革命だ。そこを第一義とする私になれば自ずと答えは見えてくる。それは周りがどれほど混乱しようが、霊的権威で抑え込まれようが、私の羅針盤である良心が納得して方向性を取るのであればそれで全て良しだ。正午定着だ。
2019年8月5日月曜日
ウリエソウォヌントンギル
目的のためには手段を選ばない、というのが私達の姿勢だった。世間の道義上いくらか柔軟な態度も見せ始めてはいるが基本そうだ。手段を選ばず行動したからこそ日本の教会への世間からの風当たりも厳しかった。私達の願い、そして韓民族にとっても悲願は南北統一だ。南北統一が目的であるから、そのためには手段を選んではいられない。よって韓国の日本に対する態度もそうなってしまう。彼等は目的のために認識も感情も、そして意志も変えていくのであり、それらは目的成就のための手段にしかすぎず、目的さえ成就すればそんなものは後で調整できるとさえ思っている。日本にして見れば言いがかり以外の何物でもないのだが、彼等はその言いがかりを真実だと思い込む力があり、それはある種の信仰の力でもあり、ユダヤ民族がそうであったように選民としての最も稀有な性格のひとつだ。この性格故に選ばれたのかそれともそうなるよう訓練されたのかはわからないが、ユダヤ民族と韓民族の似通った大きなポイントであることは間違いない。日本や日本食口が今更に文政権の異常さを口にしても、特に日本食口にすれば今までそのように訓練され日本の罪に対しては徹頭徹尾教育されながら今更韓国はおかしいと、もっと民主主義に立ち南が主体に立って統一は為されるべきだと異を唱えるとしても御母様からすればそんな日本食口は蝙蝠(こうもり)だと言われるかもしれない。実体の天一国は韓国であると断言され、韓国への帰化や移動も仄めかされたにも関わらず、氏族はおろか本人さえもそれを望まないのであれば口先だけだと言われても当然だろう。御母様への絶対信仰絶対愛絶対服従を口にしてはいるが、日本と韓国が抜き差しならない状況になったときの覚悟と選択だけはできるように準備しておかないとそんな時が来るかもしれない。もちろん韓国に渡ろうが日本に留まろうがどちらにしろ安寧な未来が待っている訳ではない。自分の信仰の在り方だけはしっかりさせておかないと、流れで何となく御母様と家庭連合に従っているのであれば自分という船がどれほど泥船で船の用を足していなかったかを思い知るだろう。
2019年8月3日土曜日
ヒエラルキー教会
現在から過去を振り返れば、そこに復帰原理が働いている。それは原理を知る食口であれば当然のように理解している。理解はしているが一方ではある事実を無視してもいる。それは恰も神が善のみの立場で復帰の原則に光を当て、中心人物によって歴史は流れているという幻想だ。歴史の流れは復帰原理に拠っているが、その中心摂理の背後には切り捨てられた夥しい犠牲の数々が存在しているという事実だ。罪のない供え物の万物の犠牲から始まり、ノアの洪水審判では当然良心的な人達も審判されている。アメリカの建国も目を覆いたくなる先住民の犠牲の上に成り立っている。先住民の立場からいえば我々を殺して国まで建ててこの地にのさばっているのがアメリカ市民だ。歴史は復帰歴史であると同時に犠牲の血の歴史だ。復帰歴史を導くのも神であり、犠牲の血を流すのも同一の神だという一見すれば矛盾する論理を、当然のように受け入れているのが原理に立つ食口達だという意味が理解できているだろうか。大戦では日本はサタン側だというが日本は何の国家的罪でサタン側に組み入れられたのか。サタン国家であるから広島長崎の犠牲があって当然だとされ、しかし母の国であっても震災による犠牲があり、それを日本の罪による蕩減だとまた言い捨てられる。犠牲達に同じ目線で心を寄せたのは中心摂理を担う群れでもなければ中心人物でもない。中心摂理を担う中心者や中心的群れは背後の犠牲に対して何の想いもないのか、あるいは同情の想いを持つべきではないのか。御父様も御母様も日本食口に対する過酷なノルマを否定されはしなかったし、プッシュはされても同情された様子はない。その両班意識なのか選民意識なのかユダヤ民族の異常にも思える誇りと韓国のそれとも相通じ、人間的な意識、いわゆる一般的で良心的な意識は切り捨てられる。そしてそれは今でも私たちの組織に於いて、高みにある位相が底辺の民を権威で主管している構図に変わりはない。良くも悪くも、あるいは受け入れるも受け入れないも、私たちはヒエラルキーが厳然として宛がわれている世界に生きているし、復帰歴史の理解がそもそもそうであるし、それを拡大して真の父母をトップとする世界的ヒエラルキーを構築するのが世界復帰でもある。郭先生の本を読んでみた。御父様に対する絶対服従を片時も忘れず重要視され行動されてきた事実には、読んだ誰もが頭を下げざるを得ないだろう。しかし郭先生もヒエラルキーの故に犠牲となられたのであり、ユダにも劣らない汚名を着せられながら、しかしそうなることで御父母様の権威を益々高められた。仕組まれたユダが存在しなかったらイエス様の権威が立たなかったと同じように、、。
2019年8月2日金曜日
日本人よ自信を持て
現日本の最大にして深刻な問題、その問題が根底にあることはわかっていながら、しかしその解決に日本人は意志を投じない。それは日本人としての本質を見ようとしない魂の喪失だ。通り一遍の類の教育問題ではなく、日本人として精神性を備えるための教育の欠如だ。日本の問題の全てはその本質を無視して触れもしないからモグラたたきのように問題が湧き溢れる。神でなくとも根源的なもの、霊でなくとも原因的なもの、その本質に意識も意志を投じなければ自分という存在の意味を持つことはない。当然、全体の日本民族としての集団魂も立つことはない。進化論を代表とする唯物主義の蔓延する教育に洗脳され慣れすぎてしまった。そのせいで魂を見失うどころか科学や技術分野における教育すら時代錯誤的で役には立たなくなっている。唯物主義による弊害は、やがては無になるという間違った認識と意識で自分の存在の意味を問えない。そうなると自ずと自分を見失う。自分の思考もなければ自信もなくなってくる。マハティールは日本人よ自信を持てと警鐘を鳴らしエールを送っている。そんな応援に応えることができるほど日本人は意志を備えているだろうか。統一食口は祝福され霊的柱を立てているはずが、多くは未だに乳離れできずに母にべったりだ。本来なら救国精神が立ち、日本を牽引する先鋒に立つべきなのに、相も変わらず数字ノルマに躍起になっている。おそらく条件を供えられないという恐れの行動を信仰的姿勢と勘違いしている。権威者が追いやる地獄があると信じるなら、望むところだと断言して天国に行きたい守りの自分を捨ててこそ犠牲精神は立つはずだが、食口の位相は地に堕ちたままだ。日本の問題は、精神を立てる使命を蔑ろにしている霊的開拓者としての統一食口の精神的無責任と怠慢だ。
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