2019年8月3日土曜日

ヒエラルキー教会

現在から過去を振り返れば、そこに復帰原理が働いている。それは原理を知る食口であれば当然のように理解している。理解はしているが一方ではある事実を無視してもいる。それは恰も神が善のみの立場で復帰の原則に光を当て、中心人物によって歴史は流れているという幻想だ。歴史の流れは復帰原理に拠っているが、その中心摂理の背後には切り捨てられた夥しい犠牲の数々が存在しているという事実だ。罪のない供え物の万物の犠牲から始まり、ノアの洪水審判では当然良心的な人達も審判されている。アメリカの建国も目を覆いたくなる先住民の犠牲の上に成り立っている。先住民の立場からいえば我々を殺して国まで建ててこの地にのさばっているのがアメリカ市民だ。歴史は復帰歴史であると同時に犠牲の血の歴史だ。復帰歴史を導くのも神であり、犠牲の血を流すのも同一の神だという一見すれば矛盾する論理を、当然のように受け入れているのが原理に立つ食口達だという意味が理解できているだろうか。大戦では日本はサタン側だというが日本は何の国家的罪でサタン側に組み入れられたのか。サタン国家であるから広島長崎の犠牲があって当然だとされ、しかし母の国であっても震災による犠牲があり、それを日本の罪による蕩減だとまた言い捨てられる。犠牲達に同じ目線で心を寄せたのは中心摂理を担う群れでもなければ中心人物でもない。中心摂理を担う中心者や中心的群れは背後の犠牲に対して何の想いもないのか、あるいは同情の想いを持つべきではないのか。御父様も御母様も日本食口に対する過酷なノルマを否定されはしなかったし、プッシュはされても同情された様子はない。その両班意識なのか選民意識なのかユダヤ民族の異常にも思える誇りと韓国のそれとも相通じ、人間的な意識、いわゆる一般的で良心的な意識は切り捨てられる。そしてそれは今でも私たちの組織に於いて、高みにある位相が底辺の民を権威で主管している構図に変わりはない。良くも悪くも、あるいは受け入れるも受け入れないも、私たちはヒエラルキーが厳然として宛がわれている世界に生きているし、復帰歴史の理解がそもそもそうであるし、それを拡大して真の父母をトップとする世界的ヒエラルキーを構築するのが世界復帰でもある。郭先生の本を読んでみた。御父様に対する絶対服従を片時も忘れず重要視され行動されてきた事実には、読んだ誰もが頭を下げざるを得ないだろう。しかし郭先生もヒエラルキーの故に犠牲となられたのであり、ユダにも劣らない汚名を着せられながら、しかしそうなることで御父母様の権威を益々高められた。仕組まれたユダが存在しなかったらイエス様の権威が立たなかったと同じように、、。

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