2020年7月4日土曜日
今日の想い 1073
良心は神様にも勝るとまで言われた御父様は、その本質を正しく受け取ってくれると私達を信じて語られたのだろうか。神様も霊界も、客観的に捉えようとしたのが科学的論拠を掲げる原理の立場だが、良心は自分の中にあり自分と共にあるのだから主観で認識して当然であり、客観的に存在するとかしないとかを問う意味もない。神様や霊界は信仰で捉えるけれども良心は信仰認識を必要としない。私達は信仰で捉えて御父母様に侍っているのか、或いは良心に従えば当然の事として侍っているのかどちらだろうか。御母様に対して反旗を立てる者は自分の信仰観からそうするのか、或いは良心に従うが故の行動なのかどちらだろうか。勿論、御父様のみ言葉とは異なるというのは信仰観から来る言い分だが、それは大義名分で本当のところは自分の内的叫びに従ったが故ではないだろうか。内的叫びが良心の声なのか自分の感情なのかはそれぞれの主観分野で何とも言えない。仮定となるが、信仰観と良心と感情が相互に作用した結果としてそういう行動に出ているとは思える。しかし今ですら大きくは三分裂し、そのどれにも組することができない多くの食口がいるのに、どうやって一つになる事ができるだろうか。前にも記したように、私達の標榜する天一国は王を中心として明瞭に位階の存在する国だ。よく使われる百姓(ペクソン)は私達庶民のことだが、王と百姓の間に位階があるのかないのか。普通あると思うのが至極当然だろう。百姓それぞれが主観的な良心を備え、それぞれが異なる意志を持つのであれば、まとめて一つにする王制はどう成り立つのか、どう成り立たせるのか。或いは現代の王制のように象徴的形式的な意味しか持たないのか。愛でもってひとつにするのはその通りだが、その為にどう組織に落とし込んでいくのだろうか。
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