2020年7月3日金曜日

今日の想い 1072

久しぶりに実家に帰宅。老親の安否確認並びにあばら家の状態も確認しておく。リフォームしたいのはやまやまだが、無理だといつも思う。部分的改修でどうこうできる状態はとっくに超えている。家長としてこの家とこの土地、そして故郷をどうするのか。摂理だ何だと大きな話はしてきたけれども、崩れそうなこの家ひとつどうにもならない。情けないかぎりだ。氏族メシヤが聞いて呆れるだろう。教会に籍を置いている日本食口は今どれ程いるのだろうか。そしてその中の何人が意志を備えた影響力を持とうとする食口だろうか。それは御母様や教会本部に対してものが言えるという影響力でも構わないし、また社会に対しての影響力でも構わない。もし何の影響力もない者達の集まりなら、摂理だ何だと大きな話はしてきたが崩れそうな家一つ手を付けられない私と同じで、ただ情けないだけの群れだ。正しいとか間違っているとかを、御母様に対して或いは原理の日本罪悪史観に対しても問うているが、実のところ人間はその思考如何によって行動を変えることはない。行動にはエンジンスターターであるところの何らかの衝動が必要であり衝動は爆発感情と言ってもいい。思考が先か感情が先か、思考を得て感情を起こす場合もあるし、感情がそれに合致した思考を得、論理を組み立ててしまう場合もある。さらに言えば、思考から感情を起こす場合も自覚していない自らの背後の感情がその思考を呼び寄せてもいる。み言葉を受け取っても、入教する人もいれば何の行動も起こさない人もいるように、意志に影響を及ぼす感情は潜在意識下に深く及んでいる。人間は自分のことすら理解できない不可解な存在だ。だから何をしても無駄だと言いたいのではなく、その逆でだからこそ意志がより重要であり、意識の光をよりあてる部分であり、神もサタンも意志を食べて意志に動く。私達は御父様の手足ではあったが能動的意志を捨て去った状態を続けてきた。御父様という神経系統を失った今は意志を発動し得ない四肢だけが取り残され動いている状態にある。行動しないのではなく行動できないという後遺症を病んでいる。論理では良心を取り戻し良心に従ってということはわかっていながら、切実なる神様の意志が繋がらない。衝動として点火しない。

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