2020年7月4日土曜日

今日の想い 1074

年も上で信仰歴も随分経ているのに、年下で僅かばかりの信仰歴しかない者にとやかく言われる筋合いはないと思った。この感情を大人げないことと片づけられるだろうか。今では私にとっても多くの食口は年下であり信仰歴も短い。上記のような感情を引き起こされる場面がたまにある。意見を述べてくるのは歓迎するが、しかし態度や物の言い方は思慮があって当然だろう。自己否定なのか自我否定なのか、叩かれ蹴られ飯ももらえず、また散々怒鳴られさげすまされて献身生活を生き延びてきた。身体を壊し血の小便まで流し、ストレスの限界まで内外の自分を酷使してきた。先輩家庭も同じように犠牲的に歩んでこられたと思えばこそ、当然のように敬意を抱くし接するにも礼儀として態度に出る。しかしいつからか献身制度もなくなり、24時間内外を修練で鍛えられる場面もなくなった。日本のあの歩みの事を思えばアメリカの歩みは屁でもない。中心者も現場も、いつしかそんな苦労を知らない食口ばかりになり、言ってることもやってることもお花畑で仲良しこよしだ。実績をとことん追及され、追い詰められて追い詰められて活路を見出す、等と言うのはもはや死語に近い。あれもできません、これもできません、できないことが当然のように平然と言い訳し、恥ずかしさもなければ悔しさもないらしい。苦労の百科事典の、恐ろしくも誇れる教会組織はすっかり堕落してしまった。優しさで愛と馴れ合いを混同している。位相という天的階級のない誰もがペクソンだという平等主義に冒されている。人間は一度地獄を見てこそ天国を標榜するように、霊的開拓者としての祝福家庭がその気概において堕落すれば、当然結果世界である人類が地獄を見ざるを得ない。間違いを犯さなければというような、我良し的な教条的信仰で天国に行くと信じているようだけれども、敢えて誤解を恐れず言うなら、間違いを犯そうとも天国を築く者こそが天国に行く権利を授けられる。それは御父様のみ言葉でもあり私の良心でもある。

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