広島から益田に向かう細い国道を、急峻な山間をくねくね登って登り切り、少し下った盆地に私の田舎は広がっている。年間を通して曇りの日が多く、陽の光が半減されて届き、そんな中で生活していると気持ちが塞いでくる。いつも見えない何かに怯えながら暮らしていた。小学校に上がった頃の出来事だったと思うが、ある日母が淹れたインスタントコーヒーを寝る前に飲んだ。おそらく濃い過ぎたのだと思う。神経が昂ぶって眠れず落ち着きを失ってしまった。皆が寝静まっても不快な興奮は冷めやらず、暗闇にじっとしていると魂が押し潰されそうな感覚を覚え、一晩中その嫌悪感にさいなまされ続けて明け方を迎えた事があった。その嫌悪感はそれ以来ずっと付き纏い、み言葉に出会うことで何とか救われたが、未だにその感覚は残っていて田舎に帰ると思い出される。人間は苦しいとか悲しいとか痛みの感情として覚えたとき何とか解決しようと意志を働かせる。もちろん嬉しいとか楽しいとかの感情を経験し、更なる喜びを得たいときも意志を働かせる。心の平安な者は幸いなりとあるが、内的戦いを主管することで手にした平安ならそうだが、戦いなしに漂う平安ならそれが意志を働かせる力には為りにくいだろう。私の意志は悪霊から逃れようとするものでしかなかったが、御母様の意志は積年の恨が基にあるようで反御父様として映るのは当然なのかもしれない。恨みと恨は別次元で考えるべきもので、恨みは感情に主管されたままだが恨は宿命的意志を発動させる動機(衝動)となる。御母様の意志が御父様の意志を超えるものとなるのかどうか。私の摂理への意志が御母様を超えるものとならなければ、どんなに論理で間違っていることを導き出しても、御母様に代わって摂理に対する責任を引き受けたことにはならない。小さい頃のあの忌まわしい体験が、私をして救いを求める意志に駆り立てた終末現象であったように、コロナ禍を引き金とする現実的混乱は、人類を救いへの渇望に駆り立ててくれる終末現象かもしれない。混乱から悪足掻きに、絶望から非力であることの自覚に、そしてやっと救いを求める意志の発動に至り、人間の傲慢さが悉く砕かれて神を求めるべき対象存在であることに気付くはずだ。死を前にして生の意味を問う姿勢ができるのであって、底知れぬ絶望を前にして真の希望とは何かを問う姿勢もできるはずだ。天国も霊界も自らの魂で自分が良しとする世界を築くべきで、誰かが作った天国は所詮借り物だろうし、御父母様が築かれた天国はそれこそ罪状を首にかけて視線を落とさなければ居所はない教会天国だろう。私は幼少期から青年期にかけて味わった、魂の混乱や魂の砕けてしまう不安に今でこそ感謝している。平安や平和の意味を知ったしあれが無ければ内面に平安を創造する力を得ることはなかったはずだ。その力は確かに霊界に持ち込める力だ。
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