コロナが生活環境を変えるだけではなく、新しい生活様式が国の環境をまるっきり変えてしまう。もうbeforeには戻れない。社会的集まりという集まり全てが否定される方向に向いている。高齢者にとっては、集まりで最も関わりがあるのは葬式だろうか。老親介護のために田舎に通っているけれども、誰それが亡くなったという話は聞くが、前のように葬儀の知らせがきて出かけることはない。後に家族葬を済ませましたという報告のハガキがくるだけだ。今までの様に亡くなったという感慨はない。今年は祭りという祭りもなくなり日本特有の季節感もなくなってしまった。失業問題、家計困窮等の経済問題は話題にあがるけれども、当然のように持ち合わせていた個や集団の感情や感覚を失いつつあることは誰も触れない。おそらく日本人は他のどんな国民よりもテレビを見ている。テレビというマスメディアに感情や感覚は寄り添い委ねている。震災や自然災害の情報はいち早く知らされるとしても、しかし実際はテレビというフィルターを通して情報に対する感情や感覚は全く異質のものを受け取っている。テレビが国民感情の主導権を握っている。日本の伝統や文化は形骸化したとは云えども、それでも一応立てる風は装っていた。しかしこの一年の一連の騒動で、そんな伝統や文化はコロナに勝てない、生きる上での只のお飾りだからという認識を露わにしてしまった。マスメディアは科学のみを信奉する無神論の立役者だ。そんな精神欠如の日本、古い感情が失われる日本で、新たな新しい感情が芽生えなければ日本は益々先細りになる。新しい感情の拠り所を何に持つかは、この国の繁栄の為に最も重大な課題だろう。形骸化した祭りではなく、日本の精神性を呼び起こす本質的祭り、要するに祭祀が日本には必要だ。反日で韓国の柱を建てようとするそんな他を卑下することで認識する情けない国の魂ではなく、日本人として生きること死ぬことの価値を活き活きと見いだせる日本の祭祀が必要だ。
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