2020年10月4日日曜日

今日の想い 1077(慰安婦の像、連合南部軍人の像、そして御母様の像)

 南部連合の首都だったリッチモンドには、数多の連合の軍人たちの銅像が町のそこかしこに座している。どの銅像も立派な土台の上に据えられていて、近くに行けば自ずと見上げる形となり威容を覚えるものばかりだ。それらの銅像が今窮地に立っている。ペンキでいたずらされたり中には倒され壊された像もある。昨今の黒人に対する一連の事件によって、歴史の遺産だったそれらが差別の象徴に挿げ替えられてしまった。市長(黒人)自らがそう発言してしまっているので遠からず処分されてしまうのだろうか。黒人の悲惨な歴史の道のりは決して蓋をされるべきものではないが、彼らの感情の爆発のままに行動に移すことは歴史を通して積み上げられてきた人種差別撤廃への道のりを否定し、元返すことになる。人間には論理人間、感情人間、そして意志人間という棲み分けもできて、どの部類に属するか、或いは強調するかが時代が動くこれからの摂理に関係することになるだろうと思っている。原理から入って信仰に至った多くの食口は基本論理人間が多いが、論理を先ず立てることに執着する以上なかなか御母様についていくのは難しいはずだ。しかし情の拠り所を求めて信仰に至った感情人間の食口は、取り敢えずは御母様に従うことに疑念は持たない。御父様のエスカレーターに乗っていたらそのまま御母様になった訳だし敢えてエスカレーターを降りて平安だった信仰感情を揺さぶられることは選ばない。私達が知って考慮すべきことは御母様は論理でもなく感情でもなく意志を前面に出すことを決意された意志人間だということだ。どの時点でそうなられたのかはわからないが御母様には確かに或る霊的存在(それが聖霊かどうかは私には判断できない)が関与されその使命に生命を預けておられる。今回の御母様の像についても、論理人間の食口には突っ込みどころ満載で食いつき放題だが、しかし批判はしても何もしない食口は無力で、御母様にとってそんな批判視線はどうでもよく使命に対してどう行動に移すか、何をやるかが常に御母様にとっての関心事だ。思うと韓国自体がそうで、30万もの慰安婦だとか徴用工だとか、像まで作ってありもしない事実をでっちあげ日本批判に明け暮れているのは、叩いた方が実利があると踏んでのことで、日本の解決は話し合いや説明で何とかなるのではなく、日本を敵にまわすと非が及ぶと思わせることだ。韓国より強くなり強く出れば一変に解決する話だ。行動に移し結果を残せば論理だの感情だのはどうにでもなるし、彼等にとってはある意味目的達成の為のツールでしかない。御母様を理解し同じ土俵に上がりたいのなら、氏族圏を集めてメシヤ宣言し、何々家の天正宮を建て、そして立派な自分の白亜の像を建てることだ。そんなことで復帰されるか?いや何もしないで考えあぐねるより行動に移すこと、実績を積むこだ。それに合わせようと必死で内面を鍛錬せざるを得ない背水の陣方策だ。それができないか疑念があるなら摂理に対する責任をどういう形で取るのかという良心の言葉が必然として自分自身に返ってくる。対案もなく批判に筆舌を尽くすなら御父様の語られる責任を果たすところの良心を疑う。レーニンの像が倒され、リッチモンドの軍人の像が倒されたように、清心塔が撤去され(移動され)、代わりに御母様に頭を垂れる像を建立され、御父様の気配を消すことで背水の陣を敷いておられるとしか思えない。惰性で御母様についてきた多くの食口は吹き飛ばされるかも知れない。

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