あれほどに青年達を引き付け燃え上がらせた霊はもはや私達と共にはいない。当時の高揚感を忘れずに覚えている食口は、理想に酔って活動したあの日々を、夢でも見させられたかのような不思議な面持ちで振り返る。堕落始祖の末裔として地上の地獄にいることを堕落論を通してしっかり認識していたから、見届けることができない見上げんばかりの地上天上天国のイメージは、地上の現実とは逆に膨らませるだけ膨らましてしまった。しかしその誤解や妄想が崩れていくに従い、理想を見失ってきた現実がある。私達は地上に引き戻されて、かつての様にみ言葉から誤解や妄想を導き出すのではなく、み言葉の霊的本質的価値を見出せるように再び摂理の峠を登っていかなければならない。今振り返れば私達の目指した理想は外的なものに過ぎなかった、という総括を私自身はしている。堕落も救いも祝福も、真の父母についても実に表面的理解に過ぎなかった。だから祝福二世に対しても御子女様に対してもそして御父母様に対してまでも落胆せざるを得ない現実を見てしまうことになった。み言葉は本来霊的なものだ。しかし霊的無知である私達はどうしてもイメージとして捉えることで理解したものと信じてきた。実際御父様は私達の理解が幼いままであることを知っておられたはずだ。だからといってそんな先天時代の歩みが無駄だったとは思わない。外的イメージとして捉えて戦ってきた勝利内容は象徴的勝利として捉えることができるはずだ。アブラハム自身がアブラハム家庭の勝利を象徴的なものに過ぎないと理解していたわけではないように、私達は天国理想のイメージを象徴的だとは思っていなかった。そして一つの摂理的時代が終わったと認識できたとき新たな摂理が何かを認識しようとする。象徴的であったかどうかはそれぞれの主観に任せるしかないが、今までの歩みを総括しないかぎり新しい歩みに踏み入れることはできない。異なる御母様が捉える摂理に、御父様の摂理の延長線上にある食口はそのまま踏み込めないように、先天時代が終わったからといって、そのまま後天時代に入っていけるとは限らない。実は先天と後天との間に後天を歩む私を準備する中間的期間が必要で、様々な批判もこれまでの歩みを客観視しようとするのも、新たな摂理を用意する為の準備に過ぎない。名前を変えられた家庭連合に留まる者も、子女様が率いる群れに参加する者も、かつての私達が味わったような高揚感はなく、どこか冷めた感情で取り敢えずはそこに居るしかないと思っているだけだ。
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