この基元節をもって神様の精子が受精される。御父様が勝利宣言をされたのであり、御母様も勝利の位置に立たれたことを御父様は明言されておられる。御父様が基元節の前に聖和されるという驚天動地の事態が起こり、私はその事実をどう受け取っていいのか混乱し通しだったけれども、肉体を持たれない御父様であっても基元節を迎えることができ、神様の精子が授精されるのはその通りだろうと思われる。
ーーー以前、私は基元節を迎えるにあたってこう記した。記しはしたけれども、今の私は、神様の結婚式は真に行われたのですかと問う立場、そして疑う立場にまで下ってしまっている。それはいつかどこかで聞いた言葉の調子と同じだ。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たねばなりませんか。」 基元節に対するのと同じように御母様に対しても疑問を投げかけている。そして御母様は言われる。文句を言わずに従うように、、。文句は言っていない。しかし従っているかどうか、、。訪ねて求めて下さった、あの同じ神霊を御母様の中に訪ねて、ああ御父様の中におられた神霊は御母様の中に移られたのですか、とはならない。確かに、復帰された当時のあの燃えるような御父様に向かう衝動自体は年と共に勢いを落としてきた。良いように言えば冷静になって周りが見えるようになった。その状況と相まって、宗教である教会をやめ家庭連合を立ち上げられたのは新たなステージに立ったのだと希望を感じた。しかし御母様が、為されていない復帰への責任を取るとして行動されているのは独生女信仰という宗教への逆戻りだ。信仰の基礎からやり直しを願われる。しかしどんなに強い口調で迫られても、復帰された当時の、初恋にも似たあの衝動はもはや起こらない。神霊がそういう形で訪ねてこられることはもうない。第4次アダムとして立つまでの信仰として、数ある宗教の内のひとつという位置付けであり、その理解以外の選択は今の私にはない。