2020年11月30日月曜日

今日の想い 1086

 この基元節をもって神様の精子が受精される。御父様が勝利宣言をされたのであり、御母様も勝利の位置に立たれたことを御父様は明言されておられる。御父様が基元節の前に聖和されるという驚天動地の事態が起こり、私はその事実をどう受け取っていいのか混乱し通しだったけれども、肉体を持たれない御父様であっても基元節を迎えることができ、神様の精子が授精されるのはその通りだろうと思われる。

ーーー以前、私は基元節を迎えるにあたってこう記した。記しはしたけれども、今の私は、神様の結婚式は真に行われたのですかと問う立場、そして疑う立場にまで下ってしまっている。それはいつかどこかで聞いた言葉の調子と同じだ。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たねばなりませんか。」 基元節に対するのと同じように御母様に対しても疑問を投げかけている。そして御母様は言われる。文句を言わずに従うように、、。文句は言っていない。しかし従っているかどうか、、。訪ねて求めて下さった、あの同じ神霊を御母様の中に訪ねて、ああ御父様の中におられた神霊は御母様の中に移られたのですか、とはならない。確かに、復帰された当時のあの燃えるような御父様に向かう衝動自体は年と共に勢いを落としてきた。良いように言えば冷静になって周りが見えるようになった。その状況と相まって、宗教である教会をやめ家庭連合を立ち上げられたのは新たなステージに立ったのだと希望を感じた。しかし御母様が、為されていない復帰への責任を取るとして行動されているのは独生女信仰という宗教への逆戻りだ。信仰の基礎からやり直しを願われる。しかしどんなに強い口調で迫られても、復帰された当時の、初恋にも似たあの衝動はもはや起こらない。神霊がそういう形で訪ねてこられることはもうない。第4次アダムとして立つまでの信仰として、数ある宗教の内のひとつという位置付けであり、その理解以外の選択は今の私にはない。

2020年11月15日日曜日

今日の想い 1085

 堕落した世界であり、常に善神と悪神が争いながら人にも社会にも関与しているのであり、当然権力把握に躍起になる政治舞台で魑魅魍魎が跋扈しないわけがない。私達が目指すとされている共生共栄共義主義社会のイメージが曖昧模糊で、たとえ段階的であるとしても目指すところの目的認識が明確に把握されていないのに、外的社会にどう働きかけるのだろうか。勝共は共産主義の間違いを明らかにさせ啓蒙し共産主義社会を解体するという明確な目的を持っていた。しかし今はどうだろうか。2020までに7ヵ国を復帰するという目標を掲げて前進してきたはずだが、何も形になっていないと思うのに御母様は7ヵ国が復帰され勝利宣言されたという。復帰の概念が何なのか、御母様が登壇する大会が開かれれば即ちそれをもって復帰されたと言うのか。そうだとするなら私達の世界復帰は現実を無視した、他の理解はどうでもいいという自己満足的目標と自己満足的達成で良しとされることになる。はたしてそれでいいのだろうか。アメリカはバイデンになりそうで、おそらく殆どの食口はトランプを望んでいたから落胆していると思うが、しかしトランプが共生共栄共義主義の人物ではないし、それどころか自国第一がモットーで国境に壁を作ることに熱心なように国家間の壁を益々強くしている。結局どちらにしても悪神も善神も働くのであって、世界摂理の明確な方向性も指示もない今では流れ任せでしかない。摂理を知る誰がトランプに働きかけたのか。H2様が摂理を把握されていてトランプとのパイプを持ち働きかけておられるのか。北朝鮮に対して、中国に対して、摂理の責任を引き受ける位置でどう働きかけているのか。私達の摂理観がぼかされていて、いたずらに時間だけが流れているとしか思えない。私達は評論家のままでトランプならどうでバイデンならどうなるという話で終わってはならず、どう働きかけるのかという意志がなければ摂理に対する責任は投げ出したことになる。

2020年11月14日土曜日

今日の想い 1084

 今御母様は裸の女王様だ、といえば憤慨されるだろうか。当然憤慨され反逆者の烙印を押されるだろう。責任者達の前で語られたお話しの内容に目を通しながら、そんなことを思った。生活やお金の苦労はしておられないとは思うが、御父様を亡くされた余生をどうして敢えて内面の孤独な道を選ばれ苦労されるのだろう。御母様がその言動に全き自信を持たれ、たとえそれが神様との直接問答による答えだとしても、それでも、強調されれば強調されるほどに食口達は距離を置く。聖霊に反すればどうなるかというような、そんな脅迫紛いにも取られる言葉まで使われながら、御自身を冷たい境地に追いやられる。教会にも事ある毎に霊的媒介に携わる食口は現れたけれども、その末路はいずれも首を傾げるものだった。傍目から見てそうだっただけで、本人は使命に預かった自負と内的達成感を得て満足しているのかも知れないが、、。御母様も物静かに平安な余生を送られるのであれば誰も批難する者などいないだろうに、御母様には御母様の摂理観があり、その使命と責任を全うしようとされればこそ、多くの者が受け入れがたい新たな霊的解釈や概念を口にされながら一人孤独に登りつめようとされる。食口にしてみれば御父様の残されたみ言葉ですら咀嚼できていないのに、どう新たな概念を受け入れられるのか、混乱必至でその反動として自ずと批判に向かわざるを得ない食口がでてくる。考えてみれば、教会基盤が立ち御父母様と仰ぎ見られる以前には、明らかにされつつある御父様の非原理的に思える数々の行動があり、御父様を亡くされてから今度は、御母様の、原理を否定されるような全食口を振り落としかねない数々の爆弾言動がある。地上的判断をすれば御父様も御母様もハチャメチャだということになる。低次元の霊媒に関わらずとも、霊的なことに関わる、特に御父母様はその霊的本質の本質に関わっておられるので地上の理解は得がたいし、困難はつきものなのかも知れない。奇跡を使い過ぎてイエス様は条件を失われたように、霊的救いを頻発されて御父母様は条件を失われたのかも知れない。こういった私の言いようが批判的物言いに見えるとしても、それでも私は御父母様によって重生した事実は誰よりも認識しているつもりだし、御父様の過去や御母様の現在がどうあれ、私の御父母様に変わりない。いまだに霊的無知を超えられない位置にいる以上、私の理解は私の理解に留まっていて間違っているのかも知れない。しかしそれでも、何らかの理解を踏まえなければ次に進めないのが人間であり、と同時に間違いが認められれば直ぐに悔い改める覚悟は備えたい。何もできない足踏み状態で時間を遣り過ごすことも、それなりの条件にはなるのだろうか。

2020年11月10日火曜日

今日の想い 1083 (キメツノヤイバ 劇場版)

世間の話題に乗り遅れまいとして「鬼滅の刃」を老夫婦ふたりで観に行ってきた。耳をつんざく音響の嵐だったが、それでも妻は上映半ばで眠りに落ちていた。後で触れるとほんの数秒だと切れ気味に返してきたが、肩の影が落ちて5分以上は経っていたと思うから、きっと登場する眠り鬼と呼ばれる魘夢(えんむ)の術中にはまったのだろう。話の筋は実に単純で、列車に乗り移った魘夢という鬼と、後に出てくるより階級の高いアカザという鬼と、対する鬼滅隊との闘いだけで完結する勧善懲悪の話だ。おそらく子供世代の魅力は迫力ある戦いの描写と音響の凄まじさでヒーロー感に浸れるところだとは思うが、これが全世代に受け入れられるというのは、人間存在や生きることの意味を問わざるを得ない人間のサガが、彼等の生き様によって深層から呼び起こされるからだと私は見る。失った家族に対する炭治郎のやりきれなさや想い、自分だけ生き残ったことの負債感とその意味、鬼と闘う以前に本人の内面世界に於いて熾烈な闘いを繰り広げる。それは主人公の炭治郎だけでなく登場人物、更には鬼までその内面世界の闘いを描写しようとしている。だから発する言葉以上に自分自身や過去への問いの言葉や闘いの言葉が全編に亘って述べられている。引き込まれながら盛り上がっていく観客の感情は、身を挺して鬼を成敗する場面で最高潮に達する。それらしい名称の剣裁きの走る閃光に場内全体が晒されるのも興奮を高めるが、それ以上に観客が矢継ぎ早に浴びるのは、鬼の誘惑の問答に惑わされず人々を守る為に生きて死ぬ決意、その高みに生きる魂の喜びを表現する力強い言葉の数々だ。その保身の微塵もない清々しさは涙腺を完全に開放させて見ている誰もがその頬を光らせる。頬を拭いながら劇場を出て、暫くは皆が優しくいい人になっている。うるさかったと言いながら後にした、魘夢の術中にはまった妻を除いては、、。

2020年11月9日月曜日

今日の想い 1082

多くの一世が人生を捧げ、歩んで残した功績は何なのか。もし次世代や後孫に残す遺産が何もないとしたら、私達の人生は只の無駄骨だったということになる。それでいいわけはないしそんなはずはない。たとえ御父様が地上におられないとしても、また御母様に対する様々な思いがあるとしても、私達は地上にありながら霊界に生きているし、時代時間を遡って勝利的内容を取り出すこともできれば未来のあるべき世界を見据えて今をそれに合わせて用意することもできる。御父様は今尚生きて私達に働いておられるし、御母様の勝利圏は御母様にとどまる以上に私達の中に存在して留まっている。その認識を得て生きてこそ私達は次元を超える存在だといえるだろう。神様に対する認識であるとか、霊界に対する認識であるとか、見えない先祖に対する認識であるとか、それは存在するとかしないとか、どんな状態かなどという地上的問いに留まらず、人生を捧げ貫いた信仰生活を通してつちかった内的意識の持ちようが、地上を超える霊的意識として備わっているはずだ。私の意識に霊的存在や環境が関与している。当然そんな意識をもって得る認識も地上的認識を超えている。今私が良心を通してもっとも意識をもち想いを深め愛する対象が誰なのか、或いは何なのか。それぞれにはそれぞれの天の使命があり、それ故に異なる個体であり人生なので十把一絡に愛する対象を固定するのはおかしい。御父母様と共に歩んだ先天を通してそれなりの心情圏を相続したのであれば、良心の声に蓋をして、意識の殆どを御母様と教会だけに向けるのもおかしい。本人は絶対服従で歩んでいるつもりでいても、実際はそれほど肩入れしてもいないしそれが私の使命だと意識的に歩んでいるわけでもない。わからなくて不安と恐れがそうさせている。相続した心情圏の土台に建てた私自身の霊界を生きる自分に自信がもてないが故に、すがる存在としてそれが御母様であったり特定の御子女様であったりしている。どう信仰しようが誰に帰依しようが、しかし結局は私の霊界は私が創造し私が背負っている。蕩減などの霊的事実を背負うというより霊界そのものを背負っているというのが御父様の見解だ。そして私達の功績はそれぞれが創造した霊界だというのが私の見解だ。霊界は心情圏と同義語だ。