2024年9月10日火曜日

今日の想い 1325

 昔まだ小学校に上がるか上がらない頃、近くの停留所に派手なポスターが貼って合って、こんな寂しい田舎にとても似つかわしいとは思えない空気を板塀から醸し出していた。記号にしか見えない朝鮮語表記と、傍らに日本語表記もあって地上の楽園、朝鮮民主主義人民共和国と記されていた。そのポスターが色褪せた頃に新しいのに変わり、その都度、独特な色使いと絵柄に子供ながらに興味を抱いたものだ。良いこと尽くしの言葉とどこか不自然な笑顔で誘いをかける、実はそれを見たときの気分と、教会から伝道されて次々とかけられる親しみの言葉や笑顔、或いは証し会で感動しきりの話を受け取るときの気分が同じ、というか同じぎこちなさを覚えたのは私だけだろうか。私自身は友達から教会の話を聞いて自分から出向いて講義を受けたものだから、誘われて、というのとは少し入り口が違っていた。もし普通に伝道されて誘われていたら引いていたかもしれない。しかし食口達の教会に対する感謝感謝でしかない話や、神様に出会ったであろう食口の感動の証しは世間にどっぷり漬かっている人間からすれば実に胡散臭いし、おめでたい人達だなと突き放されてしまいかねない。それはどこか変わった人達、すなわち洗脳された人達と認識されてしまう。要するに食口が教会を証すればするほど距離を置かれるということだ。おそらく赤子のような食口達からすれば更なる説明、教会用語でいうところのアベル的発信が足りないと思っているが、実は発信の仕方、説明の仕方が間違っているとは少しも思っていない。教会の改革を示すのに、新しく人事された若い二世達を壇上一杯に並べる様を見せられて記者達がどう思ったか知らないが、一般人に教会改革を示すのさえ教会思考によるやり方なんだなと、少なくとも私はがっかりした。

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