2024年9月24日火曜日

今日の想い 1328

創世記に「我々の形に我々にかたどって、」とあるように神を複数形で表されているが、創造を終えられると神は主なる神という表現に変る。原書の創世記には二通りの神表現があり、エロヒム(神々)という複数形の神とヤハウェ(主なる神)という一人称の神で分けて記されている。エロヒムが夜の神様でありヤハウェが昼の神様ではないかという記述を載せたことがあるが、その仮定は置いておくとして、神という存在が一人称を超えた(勿論、人ではないので一人称という言い方自体おかしいが、)、いや数理を超えた存在であることも確かだ。そうなると教会がイメージしている、というかさせている一なる神様だけでは捉えられない部分も多くあって、それでいてこれからの摂理を牽引できる立場にあるのかどうかという疑問が湧いてくる。先天の蕩減時代であったから教会の神様で摂理を引っ張ってきた訳であって、蕩減を超えた後天時代は神の概念を変えない限りお役御免になりかねない。時代は変わったのに私達が変われないとなると歴史の渦の中に埋もれて消えてしまう。もはや神様が耐え忍んでばかりおられる神様ではないのに、忍従の一語で通すのが当然だというのは通らない。訴えるべきであり、打って出るべきであり、摂理を進めるに戦略的でなければならないし、対社会では反社に仕立てられた立場で策略もあって当然だろう。如何わしい謀略だって必要かもしれない。反社というレッテルを貼られた故の開き直りの吐露ではないけれども、ここまで追い込まれながら神様は向こう側の神様でもあられるなどと相手に寄り添い自滅的素振りを見せ、恰もそれが打たれることを良しとする神様を戴く私達の姿勢だと言わんばかりに言葉に酔っているのは現実逃避だ。神様は慈愛や嘆きの神様であるだけでなく、怒りの神様でもあり裁きの神様でもあり創造の神様であると同時に破壊の神様でもある。それは人間の魂の千変万化の在り様からみてもそうで、神の単純なイメージ化はできない。にも拘らず食口の神と霊界のイメージは呆れるほど単純だ。今の世の暴れ狂う自然を見ていて、またアメリカ一強が崩れている現実を見、金融資本主義が行き着く先まで行ってしまった現状を見て、そして多様性と言われて根底が覆される社会状況はそれこそ頭に角が生えたり男女の器官を一個体に持てたりするような、そんな中でヤハウェの権威をエロヒム連合に委託しなければ統治できない地球になっている。もはや献金や旧態依然の伝道では摂理に対して何の影響力も持つことができない。

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