2024年9月11日水曜日

今日の想い 1327

 二世教育は原理を教えて完結するわけでも教義箇条を教えて良しとすることでもなく、自分の中の良心の存在を見出せるようにすることであり、良心を中心とした主体的な人生になるよう導くことだ。乱暴なことをいえば敢えて信仰に導く必要もない。子供は親の生き様を見ているのであり、教えずとも信仰故の人生観を親を通して見せている。一世の私達には大きな誤解があった。み言葉の力を恰も呪文の如くに捉えていた。少なくとも私はそうだった。み言葉さえ入ればこの道のすばらしさを理解すると思った。しかし二世の時代は一世の時の時代的背景や社会文化とも違うし、それ以前に願い願われて地上に生まれでた意味から異なっている。今の若者は今の時代だから生まれ出ているわけで、彼等は決して私達の時代に生まれることはない。先天時代という受動的時代だからみ言葉を与えられて受け入れる内的態度で良しとされたが、後天時代を生きるには能動的時代として、与えられて従うのではなく自ら掴んで主管していく内的態度が要求されている。子女様に於いてもそうだが一世から見れば教えに反する行動をたとえ取ったとしても、それを見て裁いたり諭したりして彼等が成長するのではなく、あくまで彼等の判断に委ねるしか成長の方策はない。親として接するとすれば彼等の良心を引き出すことであり、良心を主体として立てるよう導くことだ。一世の私達は御父母様から祝福の顕現を与えられている。御父母様が外的には放蕩三昧に見える子女様でさえ祝福されたことを思えば、敢えて教義の枷に当てはめて祝福を与える必要もない。他の食口が訝しく思うなら思わせておけばいいし、話を合わせておけばいい。今回の問題で多くの食口が理解したように、主体的能動的に道を切り開いていく二世が願われているのであって、私達一世の教条的枷にはまる二世では後天時代を切り開けない。

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