信仰二世もそれぞれ様々な環境があり歩みがあって今に至っている訳で、十把一絡げに括ってしまうのは違うだろう。さらに、二世の殆どは教会の信仰を持てないか或いはどっちつかずで、信仰二世の括りにも入らない者達の方が圧倒的に多いはずで、彼等にしても十人いれば十人の異なる環境があり歩みがあり、そして事情がある。信仰している側から見れば、落伍者だという認識を先ず持つのだろうし、彼等自身もまたはみ出している自覚はあるのだろうが、信仰のあるなしの基準等というものはもともとない。信仰という言葉自体が主観的言葉なので、本人があると言えばありないと言えばない、そんな言葉だ。ある意味宗教的なものは信じないと言うのも、信じないという信仰だと言えば言えてしまう。信仰二世(一世は当然だが)だと自覚する者はそれなりの神との出会いや体験を持っているはずで、だから信仰を継続している。しかし信仰を継続しているからOKなのではなく、その神との出会いや体験に甘んじている、或いはしがみついているのが問題で、そこに内的霊的成長はない。彼等が成長しなければ神体験を持たない位相の低い二世達は尚更成長できない。二世の一部が神体験を持っていて、多くの二世はそれがなくて教会との距離を取っているのであれば、自分達は選ばれた、すなわち神体験を持てずに距離をおく多くの二世達の救いの責任を引き受けているとは思わないのだろうか。信仰が自分と自分の周りの一部の幸せ事で終結している自覚があれば、神との出会いがありながらも自分は神の願いに応えていないという負債を覚えるだろうし、これ見よがしに幸せ自慢と受け取られるような証しはしない。それもこれも二世教育を間違えた一世達の責任であり、どれほど献身しようが献金しようが御国を仰げないし世間に踏みにじられて当然だろう。摂理観を正しく受け取れば天国へ行くための光を受け取る惑星的信仰ではなく、地上天国を築くために宗教を超える超宗教的な恒星存在になってこそアボジを担いアボジと共に摂理を推進している。
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