2024年12月3日火曜日
今日の想い 1347
私がどう感じてどう思うのかを観察する、という主観に先ず立つことだ。私の内面をほっておいて朝起きて夜寝るまで周囲にのみ意識を持ち続けるのではなく自分の内面に意識を持つ。この主観と主体的意識を蔑ろにされたままだと、客観という鏡でしか自分を映せず受動的私から抜け出せない。主観という鏡で周囲を先ず見るということが主体的で能動的な自分を生きることになる。そうすると周囲の環境は今までとは全く異なった、霊的に生きた様相を呈するようになる。先天から後天の意味は、客観から主観に、受動から能動に、横的な周囲に自分を合わせるのではなく縦的な自分の内面に周囲を合わせる、そして地動説から自分を中心とした再生天動説に転換していく。地動説では私は天との関係性をつかめない。宇宙の中心がどこにあるかさえもわからない。広大無辺な宇宙の片隅の太陽系であり、そのまた一点の地球であり、その表面で漂うしかない私だ。しかし再生天動説は中心は私だ。私を中心として地球が昼夜を交代させ、私を中心として四季が繰り返され、私を中心として黄道十二宮の環境圏が備えられている。そして大切なのは私が中心位置に立って初めて霊界の本質に入っていける。霊界があると信じているだけでは霊界を実感的に捉えて霊界生活を為しているとはいえない。信仰とはまだ見ぬ事実を掴む為の方便であって、掴んでしまえばそれに対する信仰はもはや必要はない。神様はどういう方だとか、天国や地獄がどういうところだとか、そんなアベルの話を鵜呑みにしたままで神様を実感でき霊界を実感できるならそれは或る霊的対象によって思わされているにすぎない。霊的感性と霊的理解は主観から良神を見出して、内的に尋ね内的に旅をし冒険しながら築いていくものだ。失った霊的感性の復帰は、復帰摂理が再創造摂理であるように再建設していくものだ。
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