2024年が去って2025年がやってくる。人は人として生まれた宿命があるし、誰一人として同じ運命に生きる者はいない。私は誰のでもない私の運命を生き、私の2024年を生きた。み言葉を受けて献身した者はみ言葉の願いを授かって呼ばれた者達だ。社会が吐いて捨てるように私達の人生を足蹴にするにしても、社会が私達の運命を担っているわけではない。私達は明らかに天と人類の未来に貢献した歩みがある。その歩みは地に刻んだのではなく霊として天に刻んだものだ。私達の歩みは地の基盤となったものはほぼないのかも知れない。誰よりも苦労してきた歩みは何だったのかと問いたくもなるのは理解できる。しかし報われることもなく流され捨てられただけの苦労ではない。それは祝福で戴いた霊の自分が堕落の自分とは別に見出されて初めて霊的に認識することができる。祝福の自分が堕落の自分を超えて主管するときに認識できる。私達はこの世の人達と同じように肉の体を持ち地上に生きている。この世の人達と同じように生きるために生活しなければならないし、同じように喜怒哀楽を生きている。地上の喜びは地上の喜びとして同じように味わうし、悲しいものは悲しいし苦しいものは苦しい。しかし異なる点は味わう喜怒哀楽を昇華することができる。新しい祝福の私が昇華させる。
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