数代前から世話になっているお寺さんに来てもらい、やっと法要を済ませた。お寺さんも郷土は同じだが、過疎の地では生活もままならず、寺だけはそのまま残し市内に出ておられ、檀家の法事に東西南北走っておられる。当然寺の或る田舎にもいかれるが、もといた住民の殆どは市内と郊外に移り住んでいて、そこここの施設で法事を行う。今回、お経の後の法話は他力本願の話だった。余すことなく全ての人を幸せにしたいと、存在そのものがその願いに貫かれているのが阿弥陀如来だということ。人間の幸せは破闇満願、暗い心である無明の闇を打破して本質的幸福を得ることだが、その方法として他力本願、阿弥陀如来に帰依し、闇を打破して幸せになれること。帰依する方法として無心に南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依します)と念じ続けること。と、いったところだろうか。しかし私のように論理でもって阿弥陀如来の実在を差し出してもらえなければ、何とも掴みどころがないという者にとっては、帰依の入り口の段差すら超えようとはしないだろう。法話を聞きながら、こんな思いが出てくる時点で、いかにも自分には悟っているかのような気分があるなあと思われてため息が出てしまった。他力本願を人任せで何もしない批判として用いられることもあるが、己の弱さをつくづく実感した者であれば阿弥陀如来に全面的に帰依する他力本願は救いだ。もし原理を聞かずに人生の辛酸を舐めて後、法話の一つでも受け取っていたなら、原理の道を行かずに大人しく南無阿弥陀仏と念ずる私になっていただろう。そう思うと自分の意志でこの道に歩むことを決めたようでも、私を私とする中心的自我のみならず、それを支える様々な霊の意志が私の人生に働いている。どれほど反社のレッテルを貼られ、教会に言及することすら親族に嫌がられても、だからといって自分の歩みが間違っていたとは露だに思っていない自分は、揺らぐことのない多くの霊の協助で支えられている。
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