花が咲いて、そして散る。形が為されて、そして壊される。人が生まれて、そして逝く。逝く人を見送る人も、また逝く人。それは千年も万年も無数に繰り返されてきたことであり、今もそして未来永劫繰り返される。かつては生まれて逝くその狭間でそれらの意味を問うても答えはなかった。だから意味を問うこと自体むなしく、意味を問えば問うほどに迷宮に入り込んで心を病む。心を病むのは霊達の孤独と根無し草による不安からくる。私はどうにも悩みすぎて心を病んだことがある。この世には悩む人と悩まない人がいる。悩まない人は今生が天の意識圏外にある者、すなわち終末に至らず悪く言うと霊も素通りする見捨てられたアブク存在に過ぎない。私は心を病むほどに悩んだけれども、奇跡的にも原理に出会い御父母様にまみえて深い絶望的悩みから解放された。私達は歴史の狭間で生きてきた数多の人間達が得られなかった答えを手にしている。そう、人類歴史を通して夥しい生死を繰り返しながら求めても求めても得られなかった、その答えとしての真理を手にしている。二世達にこの霊的歓喜がわかるだろうか。散る意味がわかり、壊される意味がわかり、逝く意味がわかる。そうなると地上を去りたくないというのは生きる欲としての執着でしかない。教会も解散されたのであれば、もはや潔く、新たに願われる摂理に目を向けるべきだろう。この期に及んで更なる解散に対する反旗を翻したところで、私は逆に摂理に反することになりはしないかと危惧する。解散命令がどれほど違法で教会存続がどれほど正しいかを今の時点で叫んでも世間は聞く耳を持たないし、それを訴えたいのであればこれからの私達の行動で認めてもらうしかない。神様は私を捨てないという確信があるなら敢えて教会にしがみ付く必要はない。摂理は次なるステージに展開され、私なのか組織体としての私達であるべきなのかは別途考えるとして新たな摂理に応えていくことに全集中すべきだ。
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