2007年8月25日土曜日

五感を超える感性

日常の生活を事情環境に身を任せる歩みをしているとたいした発見はない。しかし内的なものを中心とする、即ち内なる世界を主体として歩むと様々な気付きや感動がある。五感で受け取った情報を内的感性に照らす。その情報を通してどういう感情が内面に育つかが五感を超える別次元の新たな感覚となっていく。内面に育つ感覚は最初のうちは泡のような数秒を置いて消えてしまう感覚だが、瞑想するほどにその内面の感覚に集中していくと段々とその感覚が自分の新たな感覚として魂に備わる。その感覚が育つ土壌として感謝と謙遜を思考において訓練し自分の中心的性相として感謝と謙遜が備わるときその感性は自分のものとなっていく。第六感を身に着けたいと思ってその感性が開くのではなく神の前に人の前に自然の前に謙遜であり感謝の情に満たされたい、という想いから開けてくる。今従業員を探していて昔働いてくれた在る従業員に想いが行った。何日か彼の事を考えていたところ、今いる従業員Fが先日彼に偶然会ったと言う。彼がFに話した内容がおもしろい。彼に会うなり実は私が夢に出てきて必要ならまたお世話になりますと私に挨拶している夢だった、と彼に話した。それを聞いて想いが通じたと思った。というより自分の内面に現れた世界こそ主体的現実でありそれにこの世が合わせる形で必然として対照的現世に現れた。この説明で少し理解できるかもしれない。数日前にしばらく来ていない二人の客のことに想いがいったが、その日、その二人の客が店に顔を出した。私の顔に笑顔を見せながら呼んでくれてありがとうという目をしていた。

アメリカ経済が崩壊する日 (2)

金融機関、証券会社、ファンドが住宅ローン担保証券(MBS)に飛びついたのはその利回りにある。なかでもサブプライムローン担保で作られた合成証券の利回りは更に高い利回りがついている。どんなにローンが高すぎて延滞が増し流れる物件が出たとしても取り上げて売ってしまえば利幅はしっかりでる。前にも記したように住宅購入者はその不動産価値があがっていくものという信仰が前提で投資する。したがって身の程を超えた価格が付けられた物件でも払いきれない借金(ローン)を抱えて購入する。サブプライムは最初の三年位は低金利に抑えられている。プライムローンで高い金利を払わずにとりあえず自分の持ち物となり月々の支払いも少ない。どうせ上がるのだからという思いがある。しかし悲しいかな不動産神話は崩れる。2005年の最高値を境に上げ率が低下し更に横ばいとなりそして下がり始める。店を経営してみて解かるのは売上げが上がっているうちは全てがうまくいく、ように感じる。全てがうまくいっているのではなく売上げ上昇がマイナスポイントをカバーしてくれるのだ。しかし右肩下がりに転じたとたんカバーされていたマイナス面が一気に吹き出る。売上げが上がっているうちに締めるところを締めておかないと人件費も経費も膨らみすぎて下がり始めたとき潰すしかない状態となってしまう。国家経済、世界経済もその通りで膨らんでいるうちは(資産価値が上がっているうちは)どんな投資をしようがハイリスクハイリターンの証券を買おうが全ては吸収される。しかし一旦提示された住宅価格に不信感を覚えはじめMBS(住宅ローン担保証券)に危機感を感じ始める全体の認識が七割を超えてくると一気に下り始める。8.09ショックはその臨界点に達したと言っていい。アメリカの住宅ローン残高は10兆ドル。そのうち証券化されたもの(MBS)は7兆ドル。8.09を境にその証券に手を出そうとするものはいない。半値落ちの証券になってもとにかく処分したいと躍起になっている。欧、米、日の中央銀行が0.3兆ドルの証券買取(買いオペ)をして緊急資金供給を行う。焦げ付き不安のあるサブプライムは1.4兆ドルなのでこの調整で十分だとFRBは見解をしているが、アメリカ経済の崩壊が見え始めたのはあの日(8.09)だったと言う時が必ず来る。自分はそう予言する。

アメリカ経済が崩壊する日

8.09ショックから一変して信用収縮(クレジットクランチ)に入った。信用恐慌とまでは行かないまでも今回のクランチはロシア国債の返済不能で破綻したLTCMショック(1998年?)よりはるかに大きい。中央銀行(欧、日、米FRB)の買いオペ(資金投入)、そして利下げで緊急措置を行った為、株も買い戻され如何にも落ち着いてきたように見受けられるが臭いものにとりあえず蓋をした、と言うところだろう。中央銀行が調整できる許容量を遥かに超えた資金運用量が資産、負債をバブル化させている。事の発端はバブルが弾けた日本国の苦肉策、ゼロ金利と量的暖和の長期化にある。物価変動率自体が毎年4%5%上がっていると言うのにゼロ金利と言う意味は借りさえすれば誰でも儲かると言うことだ。資金量が多ければ多いほど利ザヤは大きいのでその旨みに預かろうとファンドなるものが台頭してきた。債権、株、通貨、資源等分散投資(ポートフォリオ)で運用しているのだがこの運用量が半端じゃない。集めたファンド(基金)であるものに投資する、例えば資金を債権に代えたとする。手元にあるその債権を担保に借り入れし更に債権を手元にする。その又借りした債権を担保に借り入れし更に更に債権を手に入れる。これを繰り返すと元本の10倍以上を借りて運用することになる。これをレバレッジをかけると言うが要するにてこの原理を無理やり資金運用に取り入れている。このファンドなるものが2000年には元本5000億ドルだったが今では2兆ドルまで膨れ上がった。これを運用しているということはレバレッジをかけて20兆ドルが投機的に運用されていると言うことだ。日本ではゼロ金利が続いたので円キャリーで投資すると金利の差額で10%を越す利回りが続いていた。しかし引き締め策が始まるととたんに苦しくなってくる。レバレッジをかけているので例え1%の金利上昇でもレバレッジをかけられて身にこたえる。利回りは下げ始め今年の7月のある週はマイナスの利回りともなった。これに輪をかけたのがサブプライムローン証券の問題だ。

2007年8月24日金曜日

御父様との繋がり

今年の夏もNORTHGARDENの地に来られる。数年前一度だけ修練会の食事担当で行ったことがあるが、間近でご様子に触れられるのは恐らく他に機会をみることは出来ない。その一度だけでありながらも発たれる最後の一同を会しての記念撮影を図らずも逃してしまった。担当の兄弟に言いくるめられ、荷物を運ぶ役を仰せつかったからだ。今の今まで何十回と食事を担当させて戴く光栄に預かりながら一度としてまともな一枚の写真の中に御父母様と自分という構図はない。しかし全く無いというわけでもない。一枚はお食事の後ご挨拶させていただいた折ひとりの姉妹が取ってくれたものだが、悲しいかなぼやけている。今一枚は食事担当でNORTHGARDENに行った折お供え物を自由に取っていくようにと話され、兄弟達が次々と取っていく様子を側で見ておられるのを、これ幸いにひとりの兄弟に頼んで一緒の構図が取れるようになるべく御父様の近くにあるお供え物に手をかけたところを取ってもらった。しかしこの一枚も激しくぶれている。というわけで自分の信仰を表したような写りの二枚が大切な宝物のひとつである。その修練会では夕食の後、先輩諸先生の証し会が持たれたが、中でもひとりの先生の証しは強く印象に残っている。ダンベリー収容時で共に過された証しをされたのだが、その話の中でレストラン業務と非常に関わりのある話をされた。レストランと御父様とどういう関係があるのだろうと疑問に思っている兄弟に、是非この話を伝えたい。収監所の中で食事担当を与えられて準備する、ようするにテーブルセッティングの係りなのだがその時御父様がその先生に指示され行ったことはナプキンにしろフォークスプーンにしろ、そしてペパーやソールトの小瓶の類まで、全て等間隔にそしてテーブルの手前の端からのナプキンの位置まですべて物差しで測ったごとくに几帳面で、見た目に美しく並べられることを徹底されたと言う話だ。心に響く多くのエピソードの中で、この触りは普通の兄弟にしてみればサッとやり過ごす話なのかもしれない。しかしレストラン業に携わりながらだと、この様子が心に浮かんで来て心が締め付けられる思いがする。御父様自身がセッティングをされながら、そのどうでもいいように思われるこだわりを持たれて精誠をつくされる、そこに言葉では言いようの無い、為に生きそして尽くすことの純真さが表されていると思った。オープン前の準備中、私は時間が許す限りテーブルセッティングに投入する。全ての椅子の位置が測ったように真っ直ぐ置かれ、ナプキンと箸の位置も各テーブル寸部を狂わず決められ、昨日の客の宴を徹底して払拭して今日のお客様の受け入れ環境に余念が無い。ある時は御父様に想いをはせながら、ある時は自分が御父様のその時の体験そのものを味わいながら、他のどの責任者もこの現場に身をおかずとも、御父様が率先して汗を流されたことがこの上なく有難く、素直に嬉しい。しかし前もってセッティングしていたサーバーが私の行動を見て、いつもいぶかしい顔をしている。

2007年8月23日木曜日

血統

真の父母はまさしく現人神様である。御父様は血統と言う言葉を常に口にされる。要するに血の繋がりを重要視される。血液というと生理的外的表現となるが、血統,血筋という表現は血の霊的印象から表現されたものだ。植物には緑の樹液が葉や根の隅々まで満たされ巡っているように、人間には赤い血液が全ての細胞の一つ一つに供給され巡っている。大量の血液が人間に形作られたなかで逐次巡りまわり、昔学校の理科室に置いてあった模型をみるように、その血液そのものが動き回り、歩いていると言っていい。目視する印象にとらわれたままで見ているその人の本質に触れることはできない。感覚的印象を超え、その中に流れている血の在り様、霊的印象を感じることができて、対する人物が何者かを知ることが出来るようになる。仕事柄刃物を手にする日々が長かったので自ずと傷つけてしまうことは多かった。忙しい時に切ったりすると痛い思いだけであるが、余裕があったりすると血の出る様を見ながら自分の中に赤い血が流れていることを妙に実感する。生きていることを実感する。自分のこの血の在り様と魂とは直結している。血の凍るような、、と言うような表現は魂と直結しているから出てくる言葉だ。内的外的に経験した全てが、この私の血の在り様に反映されている。さらに血統を遡る内的外的に経験した全ても、この私の血の在り様に反映されている。だからこの血の在り様を変える事でしか自分を浄化することはできないし、血統を遡る罪を清算することもできない。身体を動かすことに携わっている筋肉を霊的に見るなら、まさしく筋肉の細胞一つ一つに過去にこの世に生を受けた霊がびっしりとついているらしい。付いていると言うより形作っている細胞そのものだと言うことだから取り除こうとすれば肉を削ぐしかない。自分の血の在り様に相対することのできる霊で自分の骨や肉は形作られている。自分の血の在り様を根本的に代える、それが血統を転換するということだろう。だから血統転換の意味は真の父母の骨の髄まで入っていって、そこを自分の血の生成場とするということになる。それが具体的には祝福を戴いて重生し、絶対信仰絶対愛絶対服従で完全に帰依することを通してと言うことになるのだろうか。真の父母の意味や価値を100%知り得る者はいないかも知れない。真の父母を通して血統転換ができると言うことの意味や価値も100%知り得る者はいない。私達は信じている、侍っていると簡単に言うけれど、それは自分が思うところの信仰であり侍る生活にすぎないかも知れない。おそらく自分は何も分かっていないというところから出発しないと、真の父母の骨髄に入るどころか何の関係ありやと顔を背けられ、自分で勝手に思うところの自分の神、即ち偶像を拝むことになるかも知れない。