2007年8月23日木曜日
血統
真の父母はまさしく現人神様である。御父様は血統と言う言葉を常に口にされる。要するに血の繋がりを重要視される。血液というと生理的外的表現となるが、血統,血筋という表現は血の霊的印象から表現されたものだ。植物には緑の樹液が葉や根の隅々まで満たされ巡っているように、人間には赤い血液が全ての細胞の一つ一つに供給され巡っている。大量の血液が人間に形作られたなかで逐次巡りまわり、昔学校の理科室に置いてあった模型をみるように、その血液そのものが動き回り、歩いていると言っていい。目視する印象にとらわれたままで見ているその人の本質に触れることはできない。感覚的印象を超え、その中に流れている血の在り様、霊的印象を感じることができて、対する人物が何者かを知ることが出来るようになる。仕事柄刃物を手にする日々が長かったので自ずと傷つけてしまうことは多かった。忙しい時に切ったりすると痛い思いだけであるが、余裕があったりすると血の出る様を見ながら自分の中に赤い血が流れていることを妙に実感する。生きていることを実感する。自分のこの血の在り様と魂とは直結している。血の凍るような、、と言うような表現は魂と直結しているから出てくる言葉だ。内的外的に経験した全てが、この私の血の在り様に反映されている。さらに血統を遡る内的外的に経験した全ても、この私の血の在り様に反映されている。だからこの血の在り様を変える事でしか自分を浄化することはできないし、血統を遡る罪を清算することもできない。身体を動かすことに携わっている筋肉を霊的に見るなら、まさしく筋肉の細胞一つ一つに過去にこの世に生を受けた霊がびっしりとついているらしい。付いていると言うより形作っている細胞そのものだと言うことだから取り除こうとすれば肉を削ぐしかない。自分の血の在り様に相対することのできる霊で自分の骨や肉は形作られている。自分の血の在り様を根本的に代える、それが血統を転換するということだろう。だから血統転換の意味は真の父母の骨の髄まで入っていって、そこを自分の血の生成場とするということになる。それが具体的には祝福を戴いて重生し、絶対信仰絶対愛絶対服従で完全に帰依することを通してと言うことになるのだろうか。真の父母の意味や価値を100%知り得る者はいないかも知れない。真の父母を通して血統転換ができると言うことの意味や価値も100%知り得る者はいない。私達は信じている、侍っていると簡単に言うけれど、それは自分が思うところの信仰であり侍る生活にすぎないかも知れない。おそらく自分は何も分かっていないというところから出発しないと、真の父母の骨髄に入るどころか何の関係ありやと顔を背けられ、自分で勝手に思うところの自分の神、即ち偶像を拝むことになるかも知れない。
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