2007年12月18日火曜日

小さな覚悟

店で昨日の集計を終え、さあこれから店の買出しにと備品の在庫をチェックしていた。フロアマネージャーが電話口の相手と話しながら急ぎ足で私に近寄ると受話器を手渡した。ハローとは応えたが向こうから一方的に日本語で話して来る。向こうは名を告げたようだが直ぐには誰か判らなかった。誰なのか思いを巡らす間も与えず矢継ぎ早に状況を伝えたいらしい。一通り聞きながらやっと話の内容が見えてきた。妻が意識を失い倒れたということ、早急に来るようにとのこと、話の最初の方は家に居るとばかり思っていたため話がさっぱり見えなかった。そういえば今日は合唱の集まりがあると言っていた。状況が掴めると急ぎ住所を聞き出し店を飛び出した。この類の報せが来るたびに覚悟を迫られる。今回は何なのだろう。程度はどうなのか。自分の心の何処が痛み、何処がえぐられるのだろう。何度か覚悟を迫られながらその覚悟を現実として見る日が必ず来る。情として先に看取られたい思いは強くてもその可能性は遥かに低い。実際目の前で肉親を見送ったことは無い。祖父が逝ったのを知らされたのは名古屋で活動している時だった。相当苦しんで逝ったようだが母の言葉として聞いただけの事で目の前に実際見るのとはフィルターが幾重にも効いている。遠くの地で訃報を聞けたことに対して祖父に感謝した。自分には人一倍繊細な感情が薄い板ガラスを張り合わせているように自分の心の周りを覆っている。祖父の逝くのを目の前にすることは恐らく堪えられなかった。今、現実を受け止めるだけの魂の深さが今の自分に備わっているかどうかは甚だ疑わしいが、こと妻に対してはそんな甘えは許されないと思う。心が壊れ板ガラスの破片で鋭く傷つけられたとしても、全てを最後までしっかり見届ける責任が夫としての自分にはある。

今年最後の奉公

昼食の要請があり久しぶりに胃の痛い思いをしながら準備して望んだが、決して喜んで頂いた訳ではなかった。今年も暮れかかったこの時に、本来締めの意味で大満足して頂き来年の運勢に弾みをつける機会が、後味の悪いものとなった。全てが期待通りに行くとは思っていなかったが、少しでも元気を与えられればという想いを込めて投入したつもりではあったので心苦しい。しかし結果は結果として受け止める必要がある。ここからが新たな出発点との認識を持って足を進めるしかない。譬えマイナスからの出発であったとしてもだ。ただただ申し訳ない思いで一杯である。過剰に自分を責めるのもそれは自意識過剰の表れである。それは余計に重荷を背負わすことにはなっても安らぎの波を送ることにはならない。すべてが順調に行くとの驕りがあったかも知れない。確かに連絡があったのは今日の事の昨晩なので焦るには焦ったが直ぐに卸のMさんに連絡をとり魚を手配した。そしてそれなりの品もあった。兄弟全員にも朝の準備から入ってもらえるよう手配できた。睡眠時間も小一時間取っただけだが気力もそれなりに備わっている。今日は今日で準備万端で、いつもなら忘れ物の一つ二つはあるのだがそこもクリアーできた。ホテルへの道であるGWパークウェイもいつもながらワシントンモニュメントが見え隠れする頃には混み始めるのだが、差ほど気を焦らせるものでもなかった。何度か迷って往生したペンタゴン周辺。ホテルが目の前に現れると居られるであろう眩しい最上階に目を遣ることもいつものまま。早くてもだめ遅くてもだめという神業を要求されるなかでの神経のはりつめ方もある意味慣れてきたといえば言えるのかもしれない。滞りなくという意識が喜んで頂きたいという想いに勝ったのかも知れない。改めて過去の要請の数々を思い浮かべると、いろんな問題が発生し自分はどうしたらいいのだろうと途方に暮れるような状況においては不思議と喜んでいただいた。準備したもの全て車に押し込みいざ出発というときに車が消えたこともある。ホテルで搬入するときボーイがカートに積んだ荷をカーブで倒しそうになり、大切なシャリをぶちまけられたこともある。そういう時の事は強く印象に残っているし結果オーライだったりする。今回は自分の中でどこかの箍が緩んだに違いない。期待をしてくださったスタッフにも申し訳ないし、私のオーダーを受けて準備してくれた兄弟にも申し訳ない。そして何よりもTPに対して申し訳ない。

2007年12月14日金曜日

富に対する認識

富に対する認識を間違えている兄弟が多い。清貧を持ってよしとする意識は決して悪いとは言えないが、それは自分に対して戒める意識、謙虚さから出るものであり、他人を外側から見て贅沢だのケチだのと思うのは別の所から出ている。人は自分でマネージできる以上の富を持つことは出来ない。家計に於いてどれくらいのボリュームをやり繰りしているか、あるいは事業を営んでいる人であれば規模としてどの程度なのかが自分がマネージできる量を意味する。マネージできる量は人の大きさによる。意識の大きさ心の大きさも人の大きさではあるが財に関して言えば欲望(願い)の大きさがより関わってくる。欲の大きさも人の大きさである。しかし欲の大きさが直接マネージできる大きさに関わるわけではない。宇宙の法則から言って富が向こうから一方的にやってくるということは無い。たとえ懐に入ってきたとしても懐をすり抜けて出て行く。先ず願い(欲)がありそれが器となり入ってきたものでもってより価値のあるものを生み出す時マネージの力量は大きくなる。それに応じて富は増える。兄弟の生活状況がよくない、金回りが悪いというのは本当の意味での願望に至っていない。マネージという授受の法則の理解に欠けている。そしてより良くなることを諦めて今の現状に安住している場合が多い。献金だ献金だと言われても自分の力量以上は出せない。入るものが少ないから出せないのではなくマネージ出来る自分の力量が不足しているから出せない、と認識する必要がある。他人の懐を詮索したり自分の懐を嘆いたりするのはその認識がなく、金など降って湧くものぐらいしか思っていない。そこに当然入るべきものとして自然の法則に従い入ってくる。希望を持たない人、夢の無い人は富とは無縁だ。普通の労働で生活費を手にするのが精一杯だ。

2007年12月12日水曜日

見たくないもう一人の自分

食事を済ますといつものように手のひら一杯の薬を服用する。色とりどりのあずき錠やらカプセルを2~3錠づつ分けながらボトルの水と交互に口に運んでいく。小食の彼女は薬の方が多いと思われるほどで薬で生かされているような感覚だ。僅かの動作で疲れるらしく、ソファーにもたれていることが多い。小さなリビングには不釣合いな大きなソファーで、雑誌を広げたり郵便物を見たり時間の多くをここで過ごす。薬の副作用も手伝ってそのままうたた寝に入ったりする。決して身体にいいとは言えないのでベッドで休むよう肩を揺するが、大抵生返事で終わる。連れ合いの話で始めたが、実はここに出てくるソファーについて触れておきたいと思った。このアパートに移ったとき買ったのでかれこれ15年はこのリビングに居座り続けている。汚れが目立たないようにと選んだ深緑色のものだが15年もそのままにしておいて汚れていない訳が無い。今となってはこの深緑が恨めしい。居座り続けている、と記したのもあまり良い感情をこのソファーに抱いていないからだ。横になって休めるようにしっかり奥行きが取ってある為普通のものより一回り大きい。最初は便利な気もしたが、座って背もたれに掛かろうとすると自然腰の角度は水平に近いものとなりうたた寝体制に入ってしまう。そのうちにそこに腰掛けると条件反射のように眠気が襲い、更に度が進んで睡魔に引き込まれた状態になる。休んでも休んでも疲れは取れず、起き上がる意思を全くそがれる。休んだ後のすっきり感は皆無で休めば休むほどゲッソリ疲れる。ああ、これはここに何か居座っているなと思わざるをえなかった。例えて言うと人の形に成りきらない軟体の生き物と言えば想像できるだろうか。形の定まらない長い手足がそこに腰掛ける人物を背の方からゆっくり羽交い絞めしながら横に倒していく。余程怠惰な妖怪らしく動きはたいそう緩やかで、吸い付いた人物から生気を吸い取っていく。そうはっきりと霊視できるわけではないが、視覚的表現を使うとそう説明できる。ある時、連れ合いがまたそこでうたた寝し始めたので肩を揺すって寝室に行くよう促し、自分は溜まった仕事を片付けようとソファーを背に机についた。彼女は小さく返事をして立ち上がり足を運んでいった、、、、、と思ったのにどうもまだ後ろに気配がある。まだ動いていないのかとやおら身体をひねって目をやると、そこには何と寝そべっている自分がいた。もうひとりの自分を脳裏に映しだした。手足を投げ出して惰眠を貪る自分の姿をはっきりとイメージとして捕らえられた。そこに居座る妖怪か雑多の霊の類に責任逃れをしようとした怠惰という自分の堕落性本性剥き出しの姿がそこにあった。どのような事柄にも自分の本性が投影される。恨みに思ったり忌み嫌ったりするあい対する人物がいるならそれは自分の本性の現れでもある。

2007年12月1日土曜日

石見神楽

ブログに貼り付けている写真は、演題は忘れたが神楽のスナップ写真だ。数年前帰郷したときデジカメで撮った。動きが激しいのでなかなか捕え難く、それなりに撮れた中の一枚だ。季節季節の行事のなかで秋祭りで奉納される神楽は特別である。よく知られている石見神楽系列ではあるがその地方地方での味があって、自分としては我が郷土の神楽はどこよりも勝る、と思う。競演大会などは市民会館等の壇上での舞いとなる為、観客との距離が大きく開くが、祭りでの氏子神社の舞は舞子衣装の刺繍鎧が顔に触れるぐらいの距離で舞う者見る者が一体となる感じがなんとも酔える。花田植えなんて言う郷土芸能もあるにはあるがあまりにも緩やかだし動きが少ない。女性的癒し系とこれを評するなら石見神楽は男性的盛り上がり系だ。金糸銀糸の絵柄刺繍が見事に施された50キロをも超える衣装を身に付け、太鼓の軽快なばち捌きに合わせて回転を基本とする演舞を繰り広げる。ひとつの演目の中に神話の物語性を組み入れ太鼓と囃子の調子に合わせた大きな身体の動きと共に微妙な首の動き、手指の動き、足先の動き、身体の線の移行で心の動きを表す。人は顔の在り様に鏡の如くに魂が現れるが、面をつけることで鬼なり神の尊なりになりきる。神話に出てくる霊たちが舞衣に吸い寄せられて舞子の中に入り込み共に舞う。リズムに合わせて踊る伝統芸能は日本に限らずどこにでもあるが、六調子と激しい八調子で強弱をつけながら聴衆を巻き込みこれほどに深くもありエンタテイメント性に溢れたものは他にないと思う。後半になり動きが大きくなると一気に内に秘めるものを燃え上がらせ、豪華絢爛な衣装の刺繍鎧が舞いながら大きく開くと電灯の光をその光物で妖艶に反射させ霊たちの興奮を発散させる。この一帯の者に限らず見る者を大きく魅了するものがある。周囲を山々に囲まれ手付かずの自然に覆われた盆地。年に一度お社にのぼりが立ち裸電球に照らされ、大きな蝶の化身のように煌びやかな衣装が舞い踊るその場に身を置くと、何とも言えない至極の興奮が味わえる。自然物に携わる様々な妖精、氏を護る多くの神の使いや先祖、そして民百姓が一つになって宴に酔い心身を癒す。この石見神楽をなんとか残していってほしい。