2015年1月4日日曜日

今日の想い 829 (新年への想い)

迎えた新年に対する想いは、昨年の基盤の上で新たな戦いが始まったという感慨だ。撃たれる矢の数々に辟易しながらも、それでも信仰生命を失わずに新年に登壇することができたという感慨だ。元旦の冷え込んだ早朝に空を仰ぎ、青く反射する東の空からオレンジ色の陽が差し始めるのを見る。全ての痛みの影も、全ての憂いの影も、この朝陽の輝きで染め抜いて、新年の新しい戦いに向けて昨年の禍根を残すことは無い。この陽暦新年の元旦は今までとは違う。息子も帰っては来ず娘もこの正月休みに友達と出かけた。妻は日本に残したままだ。家庭を持って初めて一人で新年を迎える。その意味が何なのか今はわからない。しかし新たな戦いが始まったという御触れだけは天から届いている。陣太鼓の音が何処か遠くの方から聞こえてくる。外的なことを言うなら見通しも立っていない。内的霊的に見通せないのに確かな外的な見通しが立つだろうか。それでも一日、一日と進む以上、手探りででも進まなければならない。立てられたビジネスの中心者からすれば私が常に否定的で悲観的である風に見えるだろう。現実そうなのかも知れない。時間は更に早く早く刻み続けられるのに、前に進まなければ置いてけぼりを喰らってしまう。そんな危機感は覚えて当然だとしても、その焦りから見切り発車になってしまう。一旦決めて行動に移す以上はどこまでもポジティブで楽観に徹するべきかも知れないけれども、見切り発車にならないためには決断は慎重にすべきで、どれだけの内外の覚悟が担保されるかを把握して始めて決断が決断となる。リース(契約期間)が無くなればそのまま店も自然消滅するというのが差し詰めの見通しであれば、生き永らえる為には出店の為の戦略が必要だ。しかし焦りを見せてしまって、戦略もそこそこに見切り出店になっていないだろうか。日本でもここアメリカでも、益々所得格差は大きくなっていくようだけれども、しかし一方でバブル崩壊の足音が近付いている。株価は上下するのは常だが、上下しながらも上向きに登るはずだと何の根拠もなく安心し切っているが、バブル崩壊は必ず起こる。それがいつ起こるかはわからないが必ず起こる。あぶく銭目当ての店がニューヨークやラスベガスで目立っていて、私達も低所得者相手の商売をやめそれなりの高価格帯の店を出店する必要があると言われれば誰もが頷くだろう。しかしそれでそのままゴーサインを出していいのだろうか。ビジネス摂理として歩んできた実の部分である精誠を思えば、そんな表面的に決められるとは思わない。国家の血液であるお金が限界を越えて水増しされていて、もはや国家破綻は避けられない。そこまで見通して私達が何をすべきかの戦略を立てなければ、同じようにバブルに踊らされたバブル景気の店を出して、ビジネス摂理を天から委ねられていると言えるのだろうか。利益を出して当然だとしても、利益を出すことが最終目的ではない。御父様の願われた水産摂理、海洋摂理は儲かるビジネスを越えたところにある。水の問題があり、食糧問題があり、環境汚染問題があり、バブルが弾け国家が破綻すれば今は差し迫って意識する必要のないそういった問題が人類の死活問題として台頭してくる。必ずそうなる。御父様がわざわざ書き記すみ言葉として残して下さったそういった海洋摂理への課題を忘れて、どうしてビジネス摂理を担っていると畏れ多くも口にできるだろうか。新年に向けて再度み言葉に立ち返り、儲け主義一辺倒のビジネスでしかないことを悔い改めて出発したい。

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