2015年1月18日日曜日

お伊勢参り

帰国しているこの際にと、昔世話になった当時の責任者に会うことにした。今も三重に住んでいて、御夫妻のどちらにも時を違えて世話になっている。今までも何度か会う機会はあったが、どうも気が進まなかった。自分のあまりの変わりように驚いて笑われる自分の姿が思い浮かんだからだ。何と器量の狭いシャイな小心者だと思われるだろうが、それが今の私の現実だ。体形は日々変化をし、娘によると今の私はドラエモンだそうだ。「ドラエモン空を飛んで来た」と言うことだ。このツカミで何とか再会の第一印象を乗り越えようと思ったが、お久しぶり、とお互い笑顔で挨拶しただけだった。自意識が強すぎてどうでもいいことに神経を費やしてしまう。いつものことだ。近くで昼食のそばでも食べながら一通りの近況を説明し、一頃お世話になった家にも出向き、明日の朝は御伊勢さんにでも参拝して帰ると告げると、これから連れて行ってあげるとやおら立ちあがった。ずうずうしくも素直に受け入れて、忙しい貴重な時間を取り上げて付き合ってもらった。伊勢まで1時間以上のドライブだ。昼過ぎに出立し、内宮の参道入り口にある市営駐車場に着いた時には既に3時半を回っていた。降り立った彼に促されるままに向かうと、遷宮の折りに造られたという期待感掻き立てる地下トンネルを抜け、土産物屋が連なる長い参道に出た。タイムスリップしたような世界が両側に延々と続き、人々がその間を流れている。参拝を終えた人々があちこちの店に立ち寄ったり写真を撮ったりしている。見覚えのあるピンク色の包装紙が、ビニール袋に包まれてあちこちで揺れている。物珍しさに意識を四方に奪われながらも彼の後を付いて歩き、内宮入り口、宇治橋への鳥居に着いた。遷宮で新しくなった鳥居の檜は清々しいが、宮島の大鳥居や出雲大社の入り口で参拝者を見下ろしている鉄製の大鳥居を見慣れているせいで、正直、随分小さく見えた。しかし一礼して宇治橋を渡っていくと、明らかに普通のお社とは異なる気を感じた。姿勢を正さざるを得ない空気に次第に包まれていった。確かにその日は寒くはあったけれども、凛とした敷地内の空気は寒い気候のせいと言うのとは違った。私は参拝客という一対象として、心を正さざるを得ない大きな主体の存在、それも一柱というのではなく、一群の精神的主体存在を霊的に認識し感じているのがわかった。伊勢神宮が天照大神を祭っているのは誰でも知っている。しかし神話から受け取る印象のみでこの場に足を踏み入れると面喰ってしまう。ここには確かに日本民族を日本民族たらしめ、私達の根源に影響を与えた高次霊の一群への次元扉がここにある。私達は確かにエバの堕落によってその堕落の血を延々と引き継いで来た後孫に違いないけれども、この場にある次元扉を開いて出会うであろう精神存在達を、神様と関係のない堕落に関与した虫けら以下の存在だと全否定するのは、私の立場、私の位相では大罪に等しいだろう。しかし真の父母として来られた出所である根源は今はここに通じてはない。根源は天の岩戸のはるか向こうにある。天の岩戸は依然と閉ざされたままだ。エバが立たなかったからエバに備わるべき女性の本質は岩戸の向こうに隠され閉ざされている。堕落したエバではなく女性神として迎える宝座を神道は用意してきたように思えるし、事実迎えることができれば民族的女性神としての一柱がここに立ったはずだ。本当の意味で天の岩戸が開かれるはずだ。日本民族として過ちを犯し、或いは犠牲を強いられ、そこには迎える女性神を探し出す高次霊の一群の苦悩が伺える。ちょうどユダヤ民族が、迎える男性神を探し出す苦悩を抱え、多くの犠牲を払わざるを得なかったようにだ。歴史を持つ多くの宗教が宗教統一を掲げる御父母様をどのように迎えるのか。それぞれの宗教に関与する高次霊達は既に迎えたと言えるのだろうか。霊界のメッセージには宗教の基となった聖人達の、御父様を証しする内容が記されている。教祖と言われる聖人は受け入れるとしても、その指示の基、その宗教を信じる全てが右に倣えとはならないのだろう。人間はどこまでも複雑な存在だ。しかし内的霊的にどれほど複雑であっても、当然私達食口も同じように複雑であり、間違いを犯し罪を犯し続けるとしても、結局は勝利的基盤、すなわち人々が見上げる地上の環境基盤を築けばそこになびいて来るようになる。参拝した参道の帰り道、責任者だった彼は私にこう言った。「清平は20年そこそこなのに、内宮は2000年の歴史がある。」と、、。その意味するところを敢えて聞くことはしなかった。誰よりも教会に献身的に歩んできたし、今も歩んでいる彼のその言葉は、清平は取るに足らないというような思いでは毛頭ないだろうから、内宮以上の基盤を早く築かないとと言う私達自身への戒めの意味があったと思う。お伊勢参りと言えば赤福だ。参拝客の多くが土産にするであろう赤福を買って帰ろうとすると既に売り切れていた。仕方なく向かいの赤福のぜんざいを小上がりで食べて帰った。ぜんざいの甘さなのか、小上がりに腰を下ろしているのが皆若い女の子だったからか、内宮での緊張感から解き放たれたように思った。

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