2015年1月28日水曜日
今日の想い 831
目的地が見えないまま、それでもこの道で間違ってはいないはずだからと、後ろを振り返りながらも前進してきた。目的地が本当は何処なのかを知らずに、しかし人間の目的地がこの道の行き着く先にあると踏んで進んではきた。神様の三大祝福、個性完成、子女繁殖、万物主管。人間は幸福を追求する存在であり、目的地である幸福の境地がその祝福の達成にある、、はずだと歩んできた。原理を受け入れた者は殆んどがそうだろう。しかし個性完成とは何なのか、本当に分かっていて個性完成し、さらにそれを祝福だと歓喜する誰かに未だ会ったことはない。神様の心情を知り、神様と心情一体の境地を個性完成というなら、全ての人類と万物の孤独と悲しみ、それを超える孤独と悲しみを背負っておられる神様であれば、その心情を知り、その心情と一体の境地を受け入れることだ。すなわち私自身が神様の孤独と悲しみを背負うことだ。しかし自分の孤独と悲しみにさえ辟易している私なのにそんなことが可能だろうか。更にそれが祝福と言えるだろうか。それを祝福と思えるだろうか。私は馬鹿が付くほど素直だったから祝福と聞いて貰って嬉しいぐらいのものという認識でいた。もちろん孤独そのものが祝福ではないし、打ちひしがれる悲しみそのものが祝福ではない。祝福はその打たれる条件を代価(代償)として、より愛する力、生きる力、残して影響を与える力を買い取ることができるからこそ祝福のはずだ。孤独や悲しみに打ちひしがれている間はサタンの思う壺で、そのマイナス感情を更に募らせれようとする。統一食口の正念場は華々しく実績を立てている立場ではなく、ヨブの如くに次から次へと打たれる立場こそその真価を問われる正念場だ。祝福は奪い勝ち取るものだ。打たれることで勝ち取るものだ。だから統一教会は苦労の百科事典だ。その事典にはあらゆる苦労が記されており、ひとつひとつの苦労を代価として何を勝ち取るのか、苦労を代価として何の祝福を受け取れるかが記されている。はっきり言えることは苦労を代価としてこの世的、あるいは地上的幸福を受け取るのではない。物質的欲望、あるいは感覚的欲望を満たすものではなく、さらに心魂的欲望を満たしてくれるものでもない。その祝福は霊的なものだ。地上の価値あるものを代価としながら霊的に価値あるものを受け取る。愛は確かに形あるものではないけれども、それでも地上的な愛もあれば霊的な愛もある。私達が受け取るべき真の愛は、偽りの君を根源としている通常のエロスの愛でもなければ一般的にいう優しさや癒しの愛でもない。地上の誰もが優しさや癒しを求めているけれども、真の愛はそんな地上的な優しさや癒しでもない。霊界から見れば、地上的な優しさや癒しは偽りの愛から真の愛を求める或る段階の妥協的愛でしかない。未だに私達は霊的無知であり、目的地には燦然と輝く真の愛が霊的光、霊的暖かさをもって照らされているのに見届けられない。地上的な優しさや癒しなど比べ物にならない優しさや癒しがそこにはある。確かに私達の道のりは、無知故に遠回りするとしても、それでも前進する以上間違ってはいない。そこに孤独があり悲しみがあるなら、それこそが確かな道であることの証拠だ。孤独が胸の内を空虚にすればするほど、悲しみがさらにその谷間を深くすればするほど、真の愛へのワープポイントである絶対零度、-273度圏に近付いている。
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