2015年1月20日火曜日

お地蔵様は良心の化身かも知れない

病床の妻は、思うように動かない体を引き摺って窓際まで来ると、外気の冷たさが遮断され、ガラス戸越しに通過した陽の暖かさだけを存分に浴びながら、凝り固まった体の縛りを解いていた。彼女に取って今はこの陽の暖かさが神様の恵みだ。何も考えず、何も心配せずに、ただ身を委ねてその神様の恵みを浴びていた。太陽が生命の光を照らし続けるように、霊的太陽であられる神様は心情の光を照らし続けられる。太陽が生命の光を照らし続けるように、人間は霊的太陽の子として意識の光を照らし続ける。意識の光は私から照らされる。私の置かれた現実の環境がどうあれ、置かれた環境がどれ程過酷であり悲惨であったとしても、私は意識の光を照らし続ける。太陽がどんな谷底にも光を差し込め届けるように、神様がどんな醜い存在にも想いをかけられるように、私は逃げずに意識の光を照らし続ける。この環境の過酷さを直視し、過酷な現実が私の愛の暖かさでその恨みの縛りを解いて、私に慣れ親しんでくれるよう照らし続ける。母親が所構わず泣き叫ぶ赤子を忍耐強くあやし続けるように照らし続ける。私は現実から逃げていないだろうか。過酷な現実と悲惨な現状を暖かな眼差しで抱き続けようとしているだろうか。私は神様に似て照らし続ける存在になるべきだろうに、そうなっていない自分を見る。だからせめて、もう溜息だけはつかないことにしよう。もう泣き事だけは言わないことにしよう。それほどに恨み多い世界なら、せめて私だけでも恨み事は言わないことにしよう。神様が堕落した全ての子供たちをかき抱くように、この過酷な環境をかき抱くことにしよう。この面倒くさがり屋の私が、思うようにいかないことに直ぐ腹立たしさを覚える私が、現実を前に神様に恨み事しか言わないこの私が、この私が変わることこそが神様の第一摂理に違いない。私は何となくわかったような気がする。どうしてこれほどに私の現実は過酷なのかを。どうしてこれほどに次から次へと困難がやってくるのかを。私の神様に取っては、世界を救う以上に私が変わることの方が大切に違いない。私が変わることで私の救いがもたらされる、それが第一摂理に違いない。正直な事をいうと、この世に生まれたこと自体が恨めしいと思ってきた。だから困難を前に、意識を閉ざして無い事のように、起こらなかった事のように装おうとし、霊的な眠りに入ろうとした。それでも私の良心は私の良神として、私がその存在を忘れるほどに近くにいて、私の仕打ちを甘受しながらも真の親として導き共に居て、支えてくれてきた。妻は浮腫みのせいで随分細くなった眼を太陽の光でさらに細めている。その為にそう見えるのか、それとも本当に微笑んでいるのか見分けがつかなかったが、その姿が柔らかな表情のお地蔵様のように見えて、親としての良心がそこに佇んでいるかのようだった。

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