2015年1月13日火曜日

今日の想い 830

公開質問に受けて応えることは、み言葉を解釈問答という議論に落とさざるを得ない。いつも言っているように、み言葉は一つでも、百人いれば百通りの解釈が起こり得るわけで、自分の理解が正しいと思っても、自分の理解とみ言葉の概念が同じなのかどうなのかは私達の基準で判断できるものではない。み言葉はこうだからこうだと断定できる者は、どんなにみ言葉に精通している者であっても存在しない。解釈に道筋を見出そうとする食口は、所詮み言葉を堕落圏の言葉の領域に落とし込めようとしている。本当はわからないみ言葉なのに、言葉の領域に落とし込んでわかったつもりで安堵しようとしている。「私はみ言葉以外誰の言葉であっても正しいとはしない、それが御母様の言葉であってもみ言葉と喰い違うなら御母様をも認めない。」この言い分は一見的を得ているようだが、その根本的な問題はみ言葉を正しく受け止めていないにも拘わらず傲慢にも自分なりに理解したみ言葉を正しいとするところにある。自分なりに理解したみ言葉と本質であるみ言葉は異なる。ユダヤ教の聖職者達は、あれほどに聖書に精通しながらイエス様を認めることができなかった。クリスチャン達が常に聖書を手にしながらも結局は空を仰ぎ見て再臨のイエス様を待ち望むしかなかった。既に地上に到来され、さらには御聖和されたにも拘わらずまだ待ち望んでいる現実がある。それは御父様に出会い成約のみ言葉を受け入れた私達からすれば滑稽と思えるほどだが、歴史の事実としてそうなってしまった。しかし彼等を決して笑えない私達だということを認識する必要がある。私達もユダヤ民族やクリスチャン達が犯してしまった罪を同じように犯そうとしているからだ。それがみ言葉の解釈問題だ。公開質問などと言う提案が出てくること自体に、歴史的失敗を犯した彼等と同じ轍を歩もうとしている。正しいとか間違っているという判断は絶対であるみ言葉を前に頭を垂れる態度ではない。ただただ、み言葉とみ言葉の実体であられる御方を前に、私は何もわかっていないと頭を垂れるべきだ。神様と本当に出会って声を発する者がいるのか。真の愛を体じゅつしたと断言できる者がいるのか。み言葉の実体だと言い切れる者がいるのか。み言葉を知ってはいるがその本質を受け取り実体となってはいない。実体となってはいない自分のみ言葉解釈を正しいと断言する根拠は何一つない。であれば尋ねる姿勢を取ることだけが私達の選択肢であり、答えが得られるまで尋ね続けるしかない。すなわち謙虚であり続けるしかない。ユダヤ教徒もクリスチャン達も間違いを犯したのは決め付けから始まっている。彼等は謙虚に主はどこに来られるのですかと尋ね続けていると言うだろう。しかし問題は尋ねるに真っ白な姿勢で尋ねているのではなく、それぞれなりの期待感を持って尋ねている。それは期待へのイメージに対する執着でもあってそれが決め付けだ。私達は神様に対しても、御父母様や御家庭に対しても、はたまた霊界に対しても、正しいと思っているイメージが自分の中で先行しながら、それに合わせてみ言葉を解釈しようとする。意外とみ言葉を知らない者達の中でみ言葉の本質により近い者達がいるかも知れない。私達食口よりも遥かにみ言葉の本質を受け取った者達がいるかも知れないと思えないだろうか。そう思えないことが既に選民である私達という間違ったイメージを備えている。解釈問答に何の意味もない。強いて言えば言葉の遊びに過ぎない。それで摂理が進む訳ではない。心情を捉えられない者はみ言葉の言葉という鞘に執着し続ける。

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