2015年2月21日土曜日

天暦2015年を迎える

開けて天一国3年、天暦1月1日、天の父母様の日を迎えた。タックスリポートの期限は迫っているし、店は店で改装のために忙しいし、家庭の主(あるじ)としては主で妻の介護と病院通いに奔走している。こんな心落ち着かない新年を迎えるのは初めてのことだ。毎年暮れかかると清算すべき何かはあるけれども、それでも何らかの結論を出して心機一転して新年を迎えることができた。が今年は違う。外的にも内的にも何の結論も出てはいない。新年を透析センターで迎えた妻は、この二か月で十年の苦労の歳月を費やした如くにやつれている。人間の寿命はここのところ延びて、実年齢の七割掛けだそうだ。その計算によれば妻は40を超えたばかりだが、逆に三割増しの速さで自分の時間を駆け下っているようだ。どちらの両親も年相応の症状は出てはいるけれども、それでも妻に比べればしっかりしているし、妻の二人の姉などは妻の一回り下の妹だと説明しても誰もが納得するだろう。私達夫婦二人はこの現実から逃避することはできない。どれほど模索しても、どれほど問い尋ねても、答えを与えられないままで、終わるとも知らない地獄の行脚を進んでいかなければならない。誰もが自分の人生と他の人生とを比較しながら、その比較で優位に立てる自分を見出すことで慰めながら、定められた運命の道筋を辿っていくのだろうけれども、次々と悪夢が現実となり、矢継ぎ早に落とされていくと、そんな比較優位などで人生を歩む力とはなり得ない。転がり落ちるのを先ず止めることが先決だと、誰もが踏み止まれる位置を見定め落ち着いてから、次なる環境受け入れや人生設計を試みる。しかしどこまで落ちていくのかわからない状態という進行形では、転がり落ちるのを止めるより、上りへの岐路が必ずあることを信じて、その勢いのまま駆け上れるように翻弄される環境も感情も甘受する以外ない。下りがあれば必ず上りがあるはずだと、、。もちろん上りへの岐路など見当たらない。見えない奈落の底へいくらでも転がり落ちていく。兎に角、踏み止まろうとしないことだ。僅かな、慰めの希望的観測など目も当てないことだ。地獄の底の底を見定めてやると覚悟して、落とされる運命を甘受し続ける以外ない。祝福家庭が天の花なら、地獄の底であっても祝福の花は咲くのかどうか見定めればいい。転がり落ちながらも新年を迎えることの意味は今は問わない。それでも、せめてものお約束の御寿司を供えて、誰一人いない店で御祝いの敬拝を供えた。

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