2015年2月7日土曜日

今日の想い 832

通常、腹中の胎児が地上界に生まれたときの状況を想像できないし、想像する能力さえ備えていないように、地上界の人間が霊界に生まれたときの状況を人間の能力として想像できるとしても、霊界の実体様相はその想像を越えている。どんなに言葉を尽くしてもそれは象徴や比喩の枠から越えることはない。腹中の胎児に話しかけても地上の聴覚器官や判断器官は持ち合わせてはいないから、地上の人間が理解するのと同じ理解の仕方は出来ないとしても、何らかの低次の波動は受け取るに違いない。霊界の完成した霊人体を備えた霊人にとっても同じことが地上人に対して言えるはずだ。霊界の住人にしてみればどんなに働きかけても地上界は低次の波動しか受け取れない。人間は腹中時代に地上時代の準備を為し、地上時代に霊界時代の準備をするようになっている訳だが、堕落した人類は血統的なものである霊的(愛の)感性の欠如によって、愛の空気を呼吸する器官を準備できないために死が霊界の生とならず死は不完全なる霊界の生でしかない。不完全な霊人体では再生の地上再臨によらなければ霊的器官の準備、すなわち愛の完成とはならない。霊界のことを記した様々な本もあるし、み言葉も霊界について多くの事が記されているけれども、どれほど知識として学んでも知識がそのまま霊的器官の育成にはならない。正しい知識であっても霊的叡智の低次の波動に過ぎないのであり、霊的器官を備える為には正しく愛し愛されることが必要だ。食口でさえも疑問に感じる霊界に住む存在、それはとりわけ天使や天使長に関するものだけれども、存在することは導き出せるとしても存在様相はわからなくて当然だ。天使を見たという者も沢山いると思うが、通常の場合、見せられたそのものが天使ではなく、形あるものとして見せたその見えない意志こそが天使存在だ。当然その意志には複数関わっている場合もあり得、単体の天使とは言えない。堕落論に説明されているアダムとエバ、そして天使長ルーシェルの話は、それぞれの存在が存在し、そのような事件が起こったことは事実としても、その様相をイメージし始めた時点で誤解を生んでいく。はっきり言えることは、現代人と同じ人類始祖である人間がその場にいたとイメージするのは全く間違っているし、地上界の高次に霊界が存在するのに、地上界と同じような霊界、左の地上界に対する右のような霊界イメージで描くことも間違っている。さらに言えば、現代人の死の意味と霊界と地上界が混在するかのような当時の死の意味でさえも全く異なっている。霊界を知識として理解するのではなく、愛し愛され、四大心情圏を準備するにつれて受け取る霊的感性こそが、次第次第に霊界を見通せる器官になる。愛さない者は神を知らないと聖書にあるように、愛さない者はイエス様をも知らないし、もちろん御父母様をも知らない。そして愛さない者は霊界も知らない。目を皿にしてみ言葉を訓読し知識として受け止めたとしても、愛さない者はみ言葉の何一つ知らない。

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