2015年2月14日土曜日

今日の想い 833

腎器官がうまく機能していないらしい。体内の水分を排出することができないために足はゾウの足のように膨れ上がり、顔も満月顔にパンパンに腫れて、健康だった頃の面影はどこにもない。敗血症がやっと治まる頃に転倒してしまって、弱り目に祟り目の状態で今では自分で立ちあがることもできない。よくぞそんな状態でアメリカに連れて来れたものだと我ながら感心してしまう。それも仕方がなかった。病院にいればいくらでも金はかかるし、誰か面倒を見てくれる者も見当たらないし、病人にとっての長旅はできれば控えさせたかったけれども、背に腹は代えられなかった。アメリカに帰国して取り敢えずは様子見でベッドに寝かせていたけれども、猶予のない状態だと判断して急ぎ救急に連れて行った。病院という言葉を出す度に相対者は口を閉じて顔を強張らせる。条件反射的に嫌気感を覚えるらしい。それでも連れて行く立場の私からすれば移植を受けた場所、いわゆるホームグラウンドなので、経験のない日本の病院で治療を躊躇されるのを説き伏せるという煩いはない。その分だけは気が楽だった。しかしそんな気休めの安心が吹き飛ぶほどの事態になろうとは、連れて行く折には予想だにしなかった。妻は今まで数え切れないほどの爆弾を破裂させて周囲の内外を混乱に陥し入れてきた。蕩減なのか使命なのかわからないが、あとどれ程の爆弾を抱えていて、それがいつ投下されるのか、もちろん当の本人だにわかっていない。こんな状況になることを御父様も神様も祝福を与えた折には予定として見ておられたのだろうか。そうでないなら家庭としてその運命的なものを抱えることがみ旨と言えるのだろうか。避けようにも避けきれず、逃げようにも逃げ切れない運命に捕らわれ、肉体に於いても精神に於いても翻弄され続けながらも、ずっとその問いを問い続けている。聖人にはなれず、地獄の底で喘ぐ恨みごとしきりの自分の唯一の信仰姿勢として、今では問い続けることだけを条件にしている。



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