2015年3月31日火曜日

今日の想い 840

キリスト教神学には二人のイエスという課題がある。アダムから42代を数えるマタイ伝のイエス様と、アダムから77代を数えるルカ伝のイエス様だ。以前触れた時(二人のイエス様と御父様、2012年10月7日)は御父様の子供の時の呼び名である文龍明本人を文鮮明とは異なるような言い回しをされたことに触れたが、統一教会で「二人の、、」と言えば古い食口であれば必ず想起されるのが、「二人の御母様」という言い方だ。それは以前の婦人と今の御母様を言うものではなく、御父様が来日されて聖地を決めて行かれた折、御母様ともう一人、崔元福先生を帯同されていて、この御二人をして指した言葉だが、決してそのまま受け止められる言葉ではない。この関係性を普通の視点、普通の視点すなわち堕落的感性からの視点ということになるが、そのフィルター越しに見てしまうとどうしても受け止められないものとなってしまう。触れるべきではないと言うのではなく、堕落的感性を遠ざけて摂理的観点から尋ねていくと、意識の光を当てられることなく隠されていた復帰の方程式を知る者となれる。マタイ伝のイエス様とルカ伝のイエス様はアダムからの代数が異なるのみならず、その生まれと成長の路程までも異なっている。要するにイエス様が二人いるように思える。注意すべきはルカ伝の記述であるイエス様が12歳の時の状況で、イスラエルの宮での教師達を驚嘆させた答え、探し当てた両親に対する不可解な返答、それ以降両親に仕えられたという不思議な記述、母がイエス様に対して気にとめていた、すなわち心配していたのは何についてか、など、明らかにこの12歳のイエス様は以前と比べて急に変貌している。この12歳の時点で42代のイエス様と77代のイエス様が一つになっておられる、と思える。77代をして内的霊的に準備されたイエス様に、42代をして外的に、すなわち知恵や力を準備されたイエス様が入って内外を備えたイエス様になられたと言うことだ。私は御父様にもそのような路程があったのではないかと思っているし、個人の救いを越えて家庭的救い、家庭的復帰の為に、内的霊的に準備された相対と、外的に知恵も力もある相対の二人を相対として、一体化する為に立てられたのではないかと思っている。勝利された今の御母様は内外を備えられた御母様だ。私達祝福家庭は御父母様と同じ血統圏内に立っていて御父母様の勝利の恩恵に与っている。殆どのカップルは自分の意とは異なる相対を与えられているが、一体にはなれないものを一体化された勝利圏があるから、私達祝福家庭はお互いが随分異なっていても一体化できる。夫婦が一体化すれば子供ができるだけでなく、新しい自分を創造できる。

2015年3月26日木曜日

今日の想い 839

過酷な地上生活で様々な感情を味わいながら、しかし感情の洪水に溺れるのではなく感情を通して天の心情を尋ね求めて行くその姿勢こそ、霊的堕落圏に寄与する堕落的存在ではなく霊的勝利圏に犠牲を供える天の娘であり息子であることを確立させている。肉体と心魂をもつ地上の人間であれば肉体的平安と心魂的平安を求めて当然だ。どこまでも健康でありたいと思うし、感情を揺さぶられ翻弄されたくはない。しかし食口の多くは健康を阻害され、普通に生きて生活することすら困難で、四方から感情を翻弄される数々の事柄に脅かされている。こんなはずではなかった。復帰された当時の想い描いていた私の理想像、私の家庭の理想像とは程遠い現実に、こんなはずではなかったと言うその言葉が溜息と共に私の口から吐露される。しかし過酷な現実に覆われている今こそが正念場だろう。本当の試練の場だろう。いつ終わるとも知れない試練の数々、それが試練だとも思われず天の執拗な苛めに過ぎないように思われて、その試練の大波が襲って抜け出せないうちに次なる試練が襲ってくる。試練の二重苦、三重苦状態も当然のこととして背負わされる。あの、誰よりも信頼を御父母様から得ておられた御子女様でさえ、本当に当人かと思えるほどの変わりようで御母様や責任者を批判しておられる。霊的に異常を来しておられると言うような表現で状況の理解を片付けてしまっているけれども、別に御子女様に限ったことではない。誰しもが、当然の事として支えられていた状況が崩れてきて、自分からすれば用意されて当然の状況が当然でなくなる。愛していたもの、執着していたもの、頼っていたものが尽(ことごと)くと思われるほど奪われていく。私は愛していた妻を打たれる。妻は自慢するほど元気で健康な状況を奪われる。御子女様達はあれほど結束が固かった兄弟愛にひびが入り、教会は、百歳を越えて無病息災であられるのが当然だと思っていた御父様を奪われてしまった。霊界と地上の接近が、全ての霊界の垣根や壁が壊されて不通であったものが通ずることが、こんな状況となって襲ってこようとは思いもしなかった。しかしその現実を受け止め、さらに主管するために、霊界の混乱を実感しながらもみ言葉で分別して整理しなければ、混乱がさらなる混乱を呼んでしまう。今こそみ言葉の言葉という鞘ではなくみ言葉の核、本質を受け取る者でなければ、この霊界の混乱を主管して整理する者にはなれない。私達は霊界に逝かれた御父様からそれぞれの使命を与えられ、直接に霊界の整理を受け持っている。矢継ぎ早に起こる不穏な事柄は、すべて整理すべき霊界の事情をそこに見ている。一つ二つは甘受できても幾重にも襲ってこられると霊的に押し潰されてしまいかねない。そこに犠牲的精神が芽生えなければ賦与された氏族メシヤとしての中心は立たなくなる。押し潰されて終わるのか、それとも御父様に繋がることで犠牲的精神を相続し、中心として立つのか、勝利の鍵は神様とサタンが見守るその一点の采配で決められていく。私達はこの過程でこそ打たれる鋼の如くに本物になる。意気揚々として勝利を掴むのではなく、犠牲に接ぐ犠牲でボロボロになりながらも、さらなる犠牲を掴んで消化しながら、天の心情に相通じてこそ勝利者の印を押される。

今日の想い 838

何度も何度も立ち止まり、自分は本当に幸せなのかと問うてしまう。と言うのは肉心を中心とする堕落の私は既に悲鳴をあげているからだ。御父様によって運命的に相対者と出会った頃は、この世の幸せと同じ幸せが将来的に普通に訪れるものだと思っていたはずだ。しかし地上に於ける全ての希望的観測はことごとく砕かれてきた。それでも時間の流れのまだ穏やかだった復帰された当時は、その希望的観測を持ち続けることができた。そしてそれを持ち続けることが信仰だとも思っていた。今の激流を下るかの如くの時間流では今日に立てる希望さえ明日には砕かれてしまう。そうなるともはや地上に希望を持つことは許されず、彼岸を超えた向こう側に希望を持つのみという来世主義にならなければ一歩だに踏み出せない。あるいは完全自己否定することで全体の希望だけを自分の希望としなければ進めない。しかしその自己否定はかつて経験したことのない自己否定であり、自分で命を絶つことの方がはるかに楽だと実感するほどの自己否定を強いられることになる。私達は頭で想像していた数々のみ言葉内容や原理的用語の本当の概念を今学んでいる。過酷な現実から逃れたい、しかし逃れられない状況で感情の荒波に翻弄されながら、生きて働いておられる神様の生きた心情が息衝く概念を学んでいる。み言葉の一字一句に目を背けたい程の数多の息苦しい感情が蘇えりながら、しかし目を逸らさずに正視して、その核に息衝いている神様の心情を紐解く。神様の心情は人間の悲しみや苦しみの感情など比べ物にならないほどの悲痛で凄惨な叫びとなって尋ねる者に吐露される。御父様の路程が、また御母様の路程が過酷で凄惨とも言えるように、子供として御跡を付いていく私達の路程も過酷で凄惨なものになる。御父母様が歩まれた同じ路程を歩めることが幸せであると、息も絶え絶えに悲しみの涙を流しながらも幸せですと言えなければ、御父母様の子女とは言えないだろう。統一教会は苦労の百科事典であり、ありとあらゆる苦労を味わいながら食口が霊的文字で記していく。


2015年3月25日水曜日

今日の想い 837

私達が御母様の言葉を伺う時、どのような位相に立たれてその言葉を述べておられるかを考えなければ誤解が生じかねない。神様の一人娘であり、原罪のない立場で生まれたという御母様の言葉は、御父様はこの堕落圏からエバを復帰して真の母として立てられたという言葉とは矛盾するように思える。では御母様のこの言葉は明らかに間違っているのだろうか。先ずはっきりとさせて置くことは、原罪のあるなしの問題は血統の問題であるという、そこまでは納得しても血統の問題を地上の血縁関係の問題だと思っている。しかし本当にそうだろうか。堕落が起こったのはエバとルーシェルの関係からだけれども、ルーシェルは地上の存在ではないのでルーシェルを相手にするだけで地上の血縁関係が出発するはずはない。地上の血縁関係は、アダムが完成して神の位相に立つことでアダムと一体の神御自身がエバと結婚して血縁関係を出発させるように、ルーシェルもアダムに代わる地上人の体を借りて、或いは一体となって、ルーシェルがエバと肉体関係を持たなければ、地上に於ける堕落の血縁関係は出発しない。ルーシェルは神様がそうであるように、地上の体を持たない存在であるので実体の子をもうけることができないことは明らかだ。御父様はある訓読会でアダムの伯父がエバと関係を持ったと言われたことがある。それは伯父を通してルーシェルがエバと交わったということだ。当時の霊界と地上界の状況と、現代の霊界と地上界の状況を同じだと思わない方がいい。現代の地上界は鉱物植物動物人間の位階が明瞭に分かれているし、そのように存在輪郭も明瞭だが、よって人間の自我意識も明瞭だが、人類始祖が地上に存在し始めた頃は、位階も輪郭も意識も曖昧なのではなかったかと思える。類人猿を表象する限り、人間が外的には動物の一種だと思われるのも未だ棲み分けが明瞭ではなかったからだ。結果の世界である地上界の出来事は全て原因の世界である霊界の出来事の表象であるけれども、人間が肉心と肉体だけを持つ存在のみならず霊の存在でもあるから霊界の出来事に加担している。すなわち地上の原因を作っている。私が如何に霊的意志を持つかが霊的原因要素であり、霊的原因要素は地上界の因果関係のような時間と空間に縛られない。よって私の霊的意志の方向性で始祖の堕落の要因にもなり得るし、真の御父母様の勝利の要因にもなり得る。話は随分回り回ったが、御母様の発言を地上の血縁関係という時間と空間に縛られる結果世界の言葉と捉えてしまうと、御父様の言葉とは相容れないように思えるけれども、真の御父母様は真の父母として立つまでのあらゆる霊的段階(位相)を勝利されたのであり、勝利されたからこそ御母様は神様の一人娘であると言え、原罪の無い立場、すなわち堕落のない完成の立場は位相の最上階に立たれればこそ霊的に言える立場だ。この御母様の言葉を受け入れる者は霊的勝利圏に共に立ち、疑問を投げかける者は霊的堕落圏に立っている。位相の段階を上げて行くということと、復帰は堕落の経路を遡っていくということは同じであり、歴史を遡って原因の原因である神様の段階にまで到達する。御父様は御母様を真の娘として、真の妻として、真の母として、さらには神様の相対として立てる為に御母様に対されたけれども、私達は意外とその意味する事柄を知らない。普通に見て聞いて対すればおぞましいほどの事柄であることを知らない。堕落圏のありとあらゆる堕落的扱いを受けながらも霊的に堕落されずに勝利されて位相を上げて行かれたからこそ真の父母として立たれている。その路程の内的霊的過酷さからすれば、いうなれば御父様を真の父として産み出したのさえも御母様だということができる。御母様は確実に神様の一人娘であり、原罪の無い立場でお生まれになった。御母様の勝利への路程と勝利がそれを証明している。私達はそう公言される御母様を真の母として戴いていることが希望の源であり幸福の源だ。

2015年3月19日木曜日

今日の想い 836

華々しい経歴と実績を持つ二世の証しは、この世が屈服するに足る実力を十分備えていて御母様の願われる環境創造を実体化させていることが伺える。喜ばれて当然だろう。組織の意のままに素直に従いついてきたティピカル二世、彼等のドングリの背比べから環境創造の願いに応える二世が本当に現れるのだろうかと頭を傾げたが、こんな二世も用意されてきたのかと驚かされた。信仰姿勢に於いて普通の良い子と言われて来た二世達にとっては刺激になるはずだ。組織の意のままに動いているだけでもてはやされて実績がなくてもよかった時代から、実績がなければ御母様も振り向かず天も振り向いてくれない時代に入ってきた。この愛の減少感が二世達を揺らして本物への試練を受けることになる。今までは普通のいい子達であってそれなりに丸い人格なのかも知れないが極めて小さな丸に過ぎず、普通から敢えて丸を壊すという改革的なベクトル意志は生じない。彼らが覚えるであろう愛の減少感に翻弄される過程で、み言葉の中の存在でしかなかったサタンを実感するだろうし、神とサタンの間で揺れる自己を知るだろうし、本物しか残っていかない過酷さを知るだろう。彼がどれほどいわゆる教会活動と言われるものに関わってきたのかわからないが、イスラエルの民の中で育つのではなくサタン圏の中枢である宮殿の中で育てられたモーセのように、教会活動とは直接に関わらずにこの世の中枢に身を置いて、その環境が彼を育てたことが伺える。彼に取って母親とは死別し父親は教会活動で彼の傍にはいないというこの環境が恨みにもなる諸刃の剣だったし、この世のサタンの知恵や知識の洗礼を受けて地上の名誉や栄華だけを指向しかねないというのも諸刃の剣だったはずだ。彼が提言した、教会がカルトと見做されているという問題があるにも拘わらず、彼が教会員であること、二世であることを隠していない。隠さないことで制裁を強く受けるだろうに彼はそれを敢えて隠していない。そこが二世であることを隠して実力をこの世で発揮している二世とも異なっている。彼のような二世がどれほどいるのかわからないが、素直で思考判断を忘れている二世にも、思考判断しすぎて神への意志を忘れている二世にも、大きな刺激となって欲しい。

2015年3月4日水曜日

今日の想い 835

私達は、毎日の生活を通し、生涯を通して、神様を知り霊界を知りそして永生を知るために生きている。知情意の知的側面から言えば人生はそうなる。永遠なる生命という概念は地上で紐解ける概念ではない。地上の生命は全て限りがある。限りがあるからこそ地上の生命であって、もし限りなき地上の生命があるとすればそれはもはや生命とは言えないだろう。地上の私の生命は数億の細胞の絶え間のない誕生と死があるからこそ繋がれているのであって、誕生から死までを生命と言いながら実は誕生と死によって次元の高い生命が成り立つ、言うなれば生命の根底に死があって死なくして生命はあり得ないことになっている。地上的なものから永生と言う概念を導きだそうとするのではなく、神様を知り、霊界を知っていく過程で永生という概念も見えてくる。逆を言えば死を恐れ、地上の生命に執着する限りは、ありもしない地上の永遠の生命という妄想に憑りつかれていて、それは地上の生命の意味、概念すら受け取ってはいないことになる。あなたがたは生きていると言いながら実は死んでいるのであると話されたイエス様の言葉、それは霊的生命についての言葉ではあるけれども、地上の生命についてさえもその意味がわからず、それは生きているという妄想生命に振り回されていて地上の生命を主管的に生きてはいない。明日が継続的に来るという認識は疑問視すべきで、明日が来るのを当然としているから今日を生きようにも主管的に生きられない。地上生命の概念は霊的生命からすれば対象であり、よって主体である霊的生命が備わらない限り地上生命は掴みどころのない影でしかない。地上生命に空気は欠かせなく空気を呼吸して生命維持しているように、霊的生命に愛は欠かせないもので愛を呼吸している。地上の愛は落とされた愛、偽りの愛なので霊的生命を維持する愛の呼吸には問題があり、本質の愛である真の愛を呼吸することを覚えなければ霊的生命には至らない。ともあれ、どんなに霊的生命を想像し、また考察するとしても、それだけでは思い込みに入り込みズレてくる。それ以上に真の愛に至る愛の実体訓練がはるかに大切であり、もし、実体訓練なくして真の愛に至ることができるのであれば、思考回路だけで十分であって肉体など必要がないということになる。