2015年3月26日木曜日

今日の想い 839

過酷な地上生活で様々な感情を味わいながら、しかし感情の洪水に溺れるのではなく感情を通して天の心情を尋ね求めて行くその姿勢こそ、霊的堕落圏に寄与する堕落的存在ではなく霊的勝利圏に犠牲を供える天の娘であり息子であることを確立させている。肉体と心魂をもつ地上の人間であれば肉体的平安と心魂的平安を求めて当然だ。どこまでも健康でありたいと思うし、感情を揺さぶられ翻弄されたくはない。しかし食口の多くは健康を阻害され、普通に生きて生活することすら困難で、四方から感情を翻弄される数々の事柄に脅かされている。こんなはずではなかった。復帰された当時の想い描いていた私の理想像、私の家庭の理想像とは程遠い現実に、こんなはずではなかったと言うその言葉が溜息と共に私の口から吐露される。しかし過酷な現実に覆われている今こそが正念場だろう。本当の試練の場だろう。いつ終わるとも知れない試練の数々、それが試練だとも思われず天の執拗な苛めに過ぎないように思われて、その試練の大波が襲って抜け出せないうちに次なる試練が襲ってくる。試練の二重苦、三重苦状態も当然のこととして背負わされる。あの、誰よりも信頼を御父母様から得ておられた御子女様でさえ、本当に当人かと思えるほどの変わりようで御母様や責任者を批判しておられる。霊的に異常を来しておられると言うような表現で状況の理解を片付けてしまっているけれども、別に御子女様に限ったことではない。誰しもが、当然の事として支えられていた状況が崩れてきて、自分からすれば用意されて当然の状況が当然でなくなる。愛していたもの、執着していたもの、頼っていたものが尽(ことごと)くと思われるほど奪われていく。私は愛していた妻を打たれる。妻は自慢するほど元気で健康な状況を奪われる。御子女様達はあれほど結束が固かった兄弟愛にひびが入り、教会は、百歳を越えて無病息災であられるのが当然だと思っていた御父様を奪われてしまった。霊界と地上の接近が、全ての霊界の垣根や壁が壊されて不通であったものが通ずることが、こんな状況となって襲ってこようとは思いもしなかった。しかしその現実を受け止め、さらに主管するために、霊界の混乱を実感しながらもみ言葉で分別して整理しなければ、混乱がさらなる混乱を呼んでしまう。今こそみ言葉の言葉という鞘ではなくみ言葉の核、本質を受け取る者でなければ、この霊界の混乱を主管して整理する者にはなれない。私達は霊界に逝かれた御父様からそれぞれの使命を与えられ、直接に霊界の整理を受け持っている。矢継ぎ早に起こる不穏な事柄は、すべて整理すべき霊界の事情をそこに見ている。一つ二つは甘受できても幾重にも襲ってこられると霊的に押し潰されてしまいかねない。そこに犠牲的精神が芽生えなければ賦与された氏族メシヤとしての中心は立たなくなる。押し潰されて終わるのか、それとも御父様に繋がることで犠牲的精神を相続し、中心として立つのか、勝利の鍵は神様とサタンが見守るその一点の采配で決められていく。私達はこの過程でこそ打たれる鋼の如くに本物になる。意気揚々として勝利を掴むのではなく、犠牲に接ぐ犠牲でボロボロになりながらも、さらなる犠牲を掴んで消化しながら、天の心情に相通じてこそ勝利者の印を押される。

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