2015年3月26日木曜日

今日の想い 838

何度も何度も立ち止まり、自分は本当に幸せなのかと問うてしまう。と言うのは肉心を中心とする堕落の私は既に悲鳴をあげているからだ。御父様によって運命的に相対者と出会った頃は、この世の幸せと同じ幸せが将来的に普通に訪れるものだと思っていたはずだ。しかし地上に於ける全ての希望的観測はことごとく砕かれてきた。それでも時間の流れのまだ穏やかだった復帰された当時は、その希望的観測を持ち続けることができた。そしてそれを持ち続けることが信仰だとも思っていた。今の激流を下るかの如くの時間流では今日に立てる希望さえ明日には砕かれてしまう。そうなるともはや地上に希望を持つことは許されず、彼岸を超えた向こう側に希望を持つのみという来世主義にならなければ一歩だに踏み出せない。あるいは完全自己否定することで全体の希望だけを自分の希望としなければ進めない。しかしその自己否定はかつて経験したことのない自己否定であり、自分で命を絶つことの方がはるかに楽だと実感するほどの自己否定を強いられることになる。私達は頭で想像していた数々のみ言葉内容や原理的用語の本当の概念を今学んでいる。過酷な現実から逃れたい、しかし逃れられない状況で感情の荒波に翻弄されながら、生きて働いておられる神様の生きた心情が息衝く概念を学んでいる。み言葉の一字一句に目を背けたい程の数多の息苦しい感情が蘇えりながら、しかし目を逸らさずに正視して、その核に息衝いている神様の心情を紐解く。神様の心情は人間の悲しみや苦しみの感情など比べ物にならないほどの悲痛で凄惨な叫びとなって尋ねる者に吐露される。御父様の路程が、また御母様の路程が過酷で凄惨とも言えるように、子供として御跡を付いていく私達の路程も過酷で凄惨なものになる。御父母様が歩まれた同じ路程を歩めることが幸せであると、息も絶え絶えに悲しみの涙を流しながらも幸せですと言えなければ、御父母様の子女とは言えないだろう。統一教会は苦労の百科事典であり、ありとあらゆる苦労を味わいながら食口が霊的文字で記していく。


0 件のコメント: