2015年3月4日水曜日

今日の想い 835

私達は、毎日の生活を通し、生涯を通して、神様を知り霊界を知りそして永生を知るために生きている。知情意の知的側面から言えば人生はそうなる。永遠なる生命という概念は地上で紐解ける概念ではない。地上の生命は全て限りがある。限りがあるからこそ地上の生命であって、もし限りなき地上の生命があるとすればそれはもはや生命とは言えないだろう。地上の私の生命は数億の細胞の絶え間のない誕生と死があるからこそ繋がれているのであって、誕生から死までを生命と言いながら実は誕生と死によって次元の高い生命が成り立つ、言うなれば生命の根底に死があって死なくして生命はあり得ないことになっている。地上的なものから永生と言う概念を導きだそうとするのではなく、神様を知り、霊界を知っていく過程で永生という概念も見えてくる。逆を言えば死を恐れ、地上の生命に執着する限りは、ありもしない地上の永遠の生命という妄想に憑りつかれていて、それは地上の生命の意味、概念すら受け取ってはいないことになる。あなたがたは生きていると言いながら実は死んでいるのであると話されたイエス様の言葉、それは霊的生命についての言葉ではあるけれども、地上の生命についてさえもその意味がわからず、それは生きているという妄想生命に振り回されていて地上の生命を主管的に生きてはいない。明日が継続的に来るという認識は疑問視すべきで、明日が来るのを当然としているから今日を生きようにも主管的に生きられない。地上生命の概念は霊的生命からすれば対象であり、よって主体である霊的生命が備わらない限り地上生命は掴みどころのない影でしかない。地上生命に空気は欠かせなく空気を呼吸して生命維持しているように、霊的生命に愛は欠かせないもので愛を呼吸している。地上の愛は落とされた愛、偽りの愛なので霊的生命を維持する愛の呼吸には問題があり、本質の愛である真の愛を呼吸することを覚えなければ霊的生命には至らない。ともあれ、どんなに霊的生命を想像し、また考察するとしても、それだけでは思い込みに入り込みズレてくる。それ以上に真の愛に至る愛の実体訓練がはるかに大切であり、もし、実体訓練なくして真の愛に至ることができるのであれば、思考回路だけで十分であって肉体など必要がないということになる。

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