2015年12月22日火曜日

今日の想い 899

人間の脳は思考を司るのではなく思考回路を司る。この物理的脳から思考が発するという感覚があるから唯物論がまかり通ってしまう。それは唯物論を否定する私達も同様で、どこかで宿便のように残っている堕落的囚われがあって脳が発する思考という堕落結果思考を超えられない。脳が発する思考は本来的な思考ではなく過去の経験の産物の限定的思考に過ぎない。本来的な思考は過去の経験に縛られない完全なる自由発想であり、それは膨大な霊界図書館アカシックレコードから自在に引き出せる明晰さを兼ね備えている。人類は過去の二つの大戦を経験し何千万という生命が虫けらのように処遇される現実を見てきた。その現実を前にすれば誰もが言葉を失ってしまう。人間は死を前にして、殺される現実を前にして思考は止まってしまう。言葉を失うとはそういうことだ。原理を知りみ言葉を学ぶ者の一つの強みとして死を超える思考を手にすることができる。死を前にしても、生命を賭す必要を前にしても思考を紡ぎだせる。言葉を失うことはない。言葉には川の言葉と海の言葉がある。川の言葉は意識上の言葉、海の言葉は意識下の言葉だ。御父様のみ言葉はもちろん海の言葉だ。私達が原理を理解しみ言葉を重要視できるのは地上の領域から汽水域を超えて霊界の領域へと足を踏み入れる素養がもともとあるからだ。100回訓読が訓読のあり方としてはどうだろうかという異議も出したし、日本語翻訳もされていないみ言葉選集の全てを読み通せばみ言葉を理解したと言える訳でもない。勿論御父様は私達に対して八大教材教本の全てを持ち、全てを読み通し、一度ならず何度も読むべきだと話される。そうあるべきだとは承知した上で、しかしそうなる為には熱心なラビのように一日中教本を携帯し読み進めなければならないが、その姿勢は十分教条的であってこの世から浮いた存在になってしまう。果たしてそれをも願いだと言えるだろうか。私はもっぱらエイ!と開いたところを中心に前後して読み進めているが、それは開いたところが最も必要なみ言葉が記されていると語られたことに沿っていて、皆にも勧めたい。死の恐怖、犠牲になることへの恐怖は脳が発する思考に組み込まれていて、その川の言葉で死を超えることはない。死を凌駕できるのは海の言葉で、それは物理的脳から発せられる言葉ではなく神様からきた言葉だ。私達はみ言葉に接しながらも、頭の理解を通して、論議を通してわざわざ地の言葉、川の言葉に貶めてはいないかを気付かなければならない。海の言葉を理解できるようになると、死の意味は異なり思考の副産物としての恐怖はもはや影を潜める。御父様が死は堕落圏であり堕落圏を超えれば死ではなく昇華だと言われた意味を捉えられず、死は死で別の言葉に変えただけでやはり死だと思うのは海の言葉としてのみ言葉を受け取ってはいない。

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