2015年12月20日日曜日

今日の想い 898

人は人それぞれの観念の中で生きている。人どうし、その観念が他も当然同じだと信じていて同じ世界に生きていると思っている。外的地上世界が同じであるように、内的思考世界も相通じていると思っている。話せば分かりあえると思えるのは内的思考世界が通じているという前提でそう理解しているからだ。特に日本人は他民族や他の宗教の侵入から自然と護られてきたので、身に着ける武具も無いまま裸のままでいようとも話せば通じるはずだという御めでたい意見がまかり通ってしまう。同じ世界に生きているという感覚は教会の食口の間でもそうであり、自分の原理やみ言葉への理解と同じ理解に皆も立っていると信じていて、食口であれば同じ世界観に生きていると思っている。しかしここ数年の様相から、同じ食口でも理解が異なり異なる観念の中で生きていることに気付いてきた。ある意味これは現代版のバベルの塔だ。同じ原理、同じみ言葉を御父様から受け取りながらも、しかし理解が異なり話が通じなくなっている。それは理解が異なり始めた或る時点が生じ、それ以前の理解は同じものだったと、そう言えるのかどうかは甚だ疑問だ。実は始めからそれぞれ異なる捉え方をしていて、異なる観念が形となり表面化してバベルの塔化してしまったのではないかと思える。個人の観点に立って先ず言えることは、救いという理解から異なっている。救いは重生、すなわち生まれ変わることで為されるけれども、御父様が御聖和された今、誰に従えば救いに与ることができるかという選択を取る者がいる。それは御母様に従うということもまた選択だ。しかし救いの意味を理解した者は選択を取らない。取る必要が無い。理解しているということは既に個人的には救われているからだ。重生によって堕落とは関係の無い真の父母の血統圏から生じた新しい私の発生を認識している。新しい私、新生自分の成長は真の愛に因らなければ成長しない。どこに真の愛の光が射すかは思考的選択で見出されるものではなく、新生自分の中に内的霊的遺伝子として既に組み込まれている。それに従うこと、すなわち良心(神)に従うと言う事だ。御父様の言われる良心とは、重生した新生自分の願いを言うのであって、一般的に使われる良心のことを指して言っておられるのではない。新生自分という個人の理解が異なると家庭の理解、国の理解、世界の理解も当然異なり歪は度を増していく。よって同じ原理、同じみ言葉を受け入れたにもかかわらずお互いの理解の違いは大きくなってしまうという今の状態を呈している。しかしこの混乱を嘆く必要は無い。たとえ世界が滅びようとも嘆く必要は無い。新生自分が真の愛で成長していくなら瞬時に教会を立て直し、同じ真の父母の血統圏から生じた者達で国を形成し、世界を創っていく。旧世界の器を使うか使わないかは新生自分にとってさして問題ではない。新生という言葉を使ったが、御父様が新生を重生だと敢えて触れられたのは意味がある。重とは重なるということだが、堕落自分と新生自分とが重なっている。二重人格ならず二重自分を生きることで堕落自分を否定しながら新生自分を成長させている。心と体の一体化は体を否定するというのではなく、この堕落自分を否定しなければならない。新生自分を認識する者は真の愛の光に向いている。

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