2015年12月1日火曜日
今日の想い 895
第四次アダムを御父様の再臨として立たれる人物だという解釈をしている分派があるけれども、アダムが失敗したから第二アダムであるイエス様が救世主として立てられ、イエス様が霊的救いのみで実体的救いをもたらさなかったから第三アダムである御父様が再臨主として来られたのであって、第四アダムという救世主が必要であるなら御父様の完成完結完了を否定することになる。御父母様が勝利された人類の真の父母ではないということになり、第四アダムによらなければ実体的救いはないということになる。アダムと救世主を混同したままみ言葉を解釈していくと再臨主である御父様の再臨というような突拍子もない結論を導きだしてしまう。み言葉を隅々まで精査している訳ではないので説得力に欠けるかも知れないが、御父様が第四次アダムと言われる場合、第四次アダム圏とか第四次アダム心情圏とかという風に、圏という文字を付け加えておられる。そこには第三アダムが勝利されたから第三アダムに従い勝利した者達全体を捉えての圏だと思うのだがどうだろうか。メシヤも世界的メシヤは御父様お一人であるけれども、国家的メシヤはそれぞれの国に立てられているのであり、氏族的メシヤは私達の殆どが該当する。しかしメシヤという冠を与えられているからと言って御父様がメシヤとして失敗したから立てられた新たな救世主ではない。真の父母は過去にも未来にも御父母様だけだという言葉と、私達は皆真の父母にならなければならないという言葉の整合性をどう捉えるか。論理の躓きはみ言葉の部分部分を箇条書き的に捉えてしまうことによって起こるのであり、私達がみ言葉実体にならない限り何一つ断定できる理解は有り得ないという観点を失ってはならない。み言葉の人と言われるような存在になればなるほど論理の躓きで足をはらわれてしまう。今の時代、富んでいる者よりも知者の方がはるかに天国からは遠くなり得るいう自覚を、学べば学ぶほどに持つべきではないだろうか。何事にもバランスが大切であって本に向かう意識だけではなく周りを見る意識が必要であり、教会の兄弟達だけに接するのではなくこの世の人達にも接する必要があり、ビジネスをしているならそれが節理的であったとしても根こそぎ献金ではなく社会にも利益還元すべきであり、勿論担当している本人もそれ相応に受け取るべきだ。限定的に捉えてしまったみ言葉に特化して、そこに意識を集中させてしまうとカルト的になってしまう。私達は確かに戦いに負けてしまった分野もあって、それ故に日本は特に厳しい状態にある訳だけれども、反省点は反省点として学ぶのでなければ負けが只の負けになってしまう。氏族メシヤとして勝利しようと思うなら、勿論復帰への執念は強く持たなければならないが、社会に入り込んで頭目を現していく狡猾さを磨かなければ氏族メシヤも御題目で終わってしまうだろう。私達の直接的な言葉や行動に対しては当然の事としてひいてしまうのがこの社会だ。どれが正しいどれが間違っている等の神学論争はこの世の人の関心はなく摂理進展の何の役にも立たない。そこに一つの結論が出たとしてそれが本当に摂理を推し進めていく私達の力になり得るだろうか。それよりこの世の人相手に酒を交わして、本当は口にすべきではないが貴方が相手だから特別にと情を交流したほうがよっぽど摂理は進んでいく。あっ、、失言。
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