2016年5月30日月曜日

今日の想い 922

一つになるとは一体どういうことだろう。神様はどうせ結果として一つになるべきアダムとエバでありながら、わざわざその個体を分けて創造された。神様は両極として創造されたアダムとエバが衝突することを予想されなかっただろうか。おそらく衝突もありきでそういう経過を経ながらも一つになることを願われたはずだ。正分合作用は一なる存在から二なる存在に分けられ、新たな新しい一なる存在を創造する為の発展プロセスだ。次元上昇作用といってもいい。一なる御方であった神様はアダムエバ一体圏に住まわれる神様としてその次元を上昇させる。一なる神様の存在が天の父母様の存在に次元を上げている。次元を上げて二なる御方になったのではなく、天の父母様の存在も一体圏という一なる御方だ。私達は一つになる一つになると御題目のように唱えているが、形の上で一つになったとしてもそれは決して一つになって次元を上げたことにはならない。一つになる事とまとめる事とは異なる。一体となって次元を上げた経験のない者は、形の上で一つになる、すなわちまとめることにのみ拘る。まとめる事で一つになれたと錯覚している。TWは一つになったのではなくまとめられただけだ。それでも形の上では一つになったからものの見事にかっさらわれた。もし本当の意味で一つになっていれば、あんな簡単に持っていかれるような不甲斐ないことにはならない。何とか居残った店を一つにしたいと思っているようだけれども、一つにしようとしているのかまとめようとしているのか。まとめて思い通りにできる状態にしたいという思惑があるなら一つにはなれない。手痛い仕打ちを学習することなくTWの二の舞を演じるべきではないと思う。アダムとエバは一つになるべきだった。神様を中心として一つになるべきだった。しかしその過程はアダムとエバに任された。その過程に神様は口を挟むことはされなかった。それぞれの良心に委ねられた。真の父母はそれぞれの責任に於いて一つになる過程を通過し、最終的に真の父母一体圏を為された。一つになられた。私達は真の父母一体圏の勝利を相続し、すなわち一つになる過程を学んでその通りに一つになる道を歩んでいく。もちろんそこにも神様は口を挟むことはされない。一つになれるかどうかは良心がしっかりと立っているかどうかだ。

2016年5月28日土曜日

オバマ広島訪問

オバマ大統領が我が故郷広島を訪問した。滞在は一時間半の短いものだったけれども、日米間、そして世界にとってもこの一時間半の一連の行動は大きな意味が込められ、人類は破壊と破滅に向かうとする近代歴史観を覆し、また新しい歴史の善き出発を導くものでもあった。犠牲者達の犠牲が、捨てられた生命ではなく活きた犠牲として生かされ、その彼等の霊的復活、心情復活を感じ取ったのは私のみならず多くの広島市民、更に長崎市民も含めてそうであったはずだ。それは大統領が進み出て被爆者の代表に接して言葉を交わし、抱擁までした彼等の表情に見られる想いが全てを語っている。私は広島の故郷にこれまでにない誇りを感じた。罪なく犠牲となった犠牲者達の尊い精神の高みを見上げた。犠牲精神が真の愛ならオバマの訪問を受け入れた犠牲の霊達こそ真の愛を身をもって証しした者達だ。そしてここまでくるのに71年を要した道のりは、犠牲を恨みと結論付けるか愛への昇華とするのかの彼ら自身の内なる戦いだった。彼等は肉体を失っても内的霊的に戦い続けてきた。20数万に及ぶ魂達の戦いだった。数年前であれば殺され損だと恨みに燃えて当然の魂達が、真の愛としての犠牲というそれまでに無かった内的価値観に至ることができたのは、真の父母が犠牲的精神の勝利を勝ち取り、その価値観を高く掲げられたことに因っている。真の父母の勝利圏を地上のどこに見ることができるかと、食口ですらその指摘に口籠ってしまうけれども、内的霊的見地に立った者であれば真の父母の勝利圏をそこに見て、それはもはや否定しようのないものだ。地上の食口よりは霊界にいる者達の方がよっぽど認識している。私は犠牲者達を誇りに思うとともに、自分のあまりにも自己中心な姿勢と霊的無知に恥ずかしさを覚えた。何と私は些細なことにすら恨み多き者だったろう。自分が、自分の家庭が誰よりも犠牲を払っているという感情からずっと抜け出せなかった。事実として認めようとも感情として認められなかった。だから不満を覚えたし、信仰の基本である感謝も口から出るのとは裏腹で抜け殻に過ぎなかった。偽善者だった。世論をおして広島訪問を英断したオバマの想いにも、恨みを晴らそうとするのではなく希望の出発として訪問を受け入れた被爆者達の想いにも、真の愛に通じるものがある。彼等こそ真の父母を叫ばなくても真の愛の本質に生きようとしている。誰よりも真の愛主義、心情主義であるべき私でありながら、いつのまにか打算的で政治的な見地に捕らわれていた。後の者が先になり先の者が後になる。いつのまにか逆転して、真の父母を知る私が彼等を見上げる内的状況になってしまった。でも、それはそれで私の願いだったはずであり霊としての喜びが込み上げてくる。兄弟であり子女である彼等が親の位置の私を越えてくれたのだから、、。スピーチするオバマや聴衆を見守るように、茨の冠を被った産業奨励館が背後でやさしく立っていた。

2016年5月23日月曜日

タックスヘイブン

パナマ文書の問題が広がりを見せている。世界的企業に名を連ねる役員や著名な俳優、元国家元首のみならず現国家元首やその側近達まで名前が挙がっている。民間人に関しては黙認するとしても税を徴収する側や税の配分に加担する公人の名が連なるのは国民感情が許さないだろう。あくまでも同義的責任であって法で裁くには難しい部分があるのだが、だからこそ国民感情が許さない。政治への不信は益々大きくなり国の国民統率力は失墜していく。そうなると、国民目線に立つなら国には愛想を尽かし、如何に彼らを追求するかよりも如何に税を逃れるかに意識はいくだろう。追求する意識があるのは国に所属する私だという観点に立っているからそうするのだが、政治への不信が国民としての意識を捨てさせて、彼らを追求するよりも先ず税を無駄金と捉えてしまうようになってしまう。そうなると資産を租税回避地に移すことは何の躊躇も無いのであり当たり前のことになる。それは既に国としての機能が麻痺していることを意味している。これで益々タックスヘイブンへの資産移動は特殊人物だけに留まらず一般人も当然のこととして顕著になっていくかも知れない。これが御父様がいう逃避城時代なのだろうか。貨幣価値、とりわけ基軸通貨ドルの価値はアメリカという国があるから成り立っているが、アメリカが国を維持することができなくなるにつれてドルは紙切れとなる。よってタックスヘイブンにドル資産は移動させるもドルが紙切れになる前に別の資産に形を変えておく。しかしこのパナマ文書流出の仕業は、アメリカ政府の要人が名前を上げられていないことからしてアメリカが関わっていることは確かだろう。しかし文書上に名前を上げられている人物がいる。トランプ候補だ。様々な暴言がありながらもその勢いで指名獲得に拍車をかけてきたようだが、流石にこれに関しては国民も黙ってはいないはずだ。切ってしまったこのカードはトランプ排除の為だったのかも知れないが、一方でドルの信用も失わせかねないという危険を併せ持っている。タックスヘイブンを利用していた者達がこの発覚で取りやめることはない。取りやめて自国に納税するのであれば文書流出の効果は大きいが、裁く法もなく状況は変わらないのみならず、より多くの者達がタックスヘイブンを利用するようになる。経済を実体から金融へと舵取りしたのは政府だが、逆に国から流出させるタックスヘイブンの台頭をもたらした。タックスヘイブンは金融経済の申し子といっていい。金融を摂理貢献の龍とするか或いは巨大な毒蛇とするかは国の経済からタックスヘイブンに逃避させた者達への働きかけが重要になる。それは国の働きかけをいうのではなく摂理を担う者達の働きかけだ。国に頭を下げるのか摂理を担う者に頭を下げさせるのかだ。これに関しては天の父母様の直近存在達の直接の働きかけを見ることができる。彼等が逃避城時代をどのように方向付けて行くかだ。国の支配を逃れた資本は国を超えた事業、すなわち国際ハイウェイ事業に注ぎ込まれて当然だ。どっちみち国の税金や追徴金罰金として取られるのなら、それを国際貢献として名を残すものに使おうとするだろう。脱税者なのか貢献者なのかを今なら選べる。

今日の想い 921

今日は久方ぶりに、ある先輩祝福家庭御夫妻と息子さんが店に来て下さった。サモニムはお体を悪くされて体重も減り歩くのも大変そうだったが、先生は25年前に初めてお目にかかった時と同じように若々しかった。最近基準の下がる出来事があったために、これからどうしたものかと思い悩んでいたけれども、昨日の個団の会長の来店、そして今日の先輩家庭の来店と続き、天が落ち込んだ私を慰めて下さっているかのようだった。今日来店された御夫妻は食口なら誰もが知っている御方だが、私のような者にも随分丁寧に、そして親密に接して下さる。骨相も体格も御父様そっくりで、私の手を強く握ってオレンマニムニダと挨拶して下さる表情は御父様そのものだ。その瞬間御父様が接して下さったと強く思われて、不覚にも涙が溢れた。すぐにも顔を逸らせたので気付かれなかったとは思うが、後の会話を自然にもっていくのに随分苦労した。この店が本当に好きで会う人毎に紹介していると、、食事もおいしいけれどここは心情が込められていると、、御父様の御心情が感じられると、、そこまでお褒めに与ってどう言葉を返していいのかわからなかった。もちろんお世辞が八割がただが、ビジネスライクでは図れないものがこの店にはあると再確認させて戴き、店を展開することもさることながらこの店をずっと守り続けることも私の大きな使命だと思わされた。DCエリヤに御父母様が来られた時はいつもサモニムが身の回りのお世話をしておられた。御食事の要請もいつもサモニムから連絡があった。あの頃のテキパキと指示を出され動いておられたサモニムを知っているので、立ち上がるのも一苦労、歩くのも時間のかかる様子に、どのようにお声を添えていいものか戸惑ってしまった。先回来られたときは先生の母上も御一緒だったが、先月か先々月か聖和された。御一緒の時はまだサモニムは母上を気遣い支えようとしておられたのに、今回は息子さんに支えられていた。同じメトロエリヤにお住まいだといってもDCを挟んで反対側で、そこから一時間はかかるだろう。体調を押して来て戴いたことに感謝を伝えたが、しかしそれを覆うように手を握って謝辞を返される。本部とのビジネスライクな乾いた冷たい遣り取りに辟易していたが、別の側から愛の心情が流れ込み、未だ御父母様の心情圏に包まれていることが感じられて、これで私の霊はまだしばらく生き続けることができる。

2016年5月21日土曜日

今日の想い 920

御父様が最後に為された大会は「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」だ。ニューヨークワシントン大会、ラスベガス大会、そしてソウル大会の三拠点で為されている。この大会の勝利によって三つの勝利権を謳っておられる。摂理の総体的覇権的勝利権、神様の解放釈放世界の勝利権、そして最終的結末を締めくくる生涯の勝利権の三つだ。その上で韓国が神様の祖国であり故郷になる。最初の勝利権は人類救済の勝利権、二番目は神様救済の勝利権、そして御父様御自身の生涯の勝利権となっている。その勝利権をもって基元節は確かに超えた。基元節を超えて御母様が地上に残っておられる。そして私達も地上に残っている。残っている者達は残って為すべき使命がある。御母様を中心として内的霊的にひとつになって為すべき使命がある。一つになる、という事の意味を取り違えてはならない。理解も納得もできないことを闇雲にお題目に掲げ猛進することが一つになることではない。日本の、願いを受けてきた信仰は先天時代に於いては誇れるものだけれども、後天時代にも同じように僕ぜんとして物言わぬ呑み込み存在に徹することが一つになることだとは思わない。実子の位置に立ったのなら物言って当然だろう。私はこう思いますと御母様の前で何故言えないのか。御父母様に畏れは抱くとしても恐れは堕落性と関係している。100軒の店舗にどうして固執するのか。100軒のラーメン屋をつくるのと、たとえ10軒であろうと、アメリカが、そして世界が注目する10軒の店舗をつくるのと、御母様はどちらをとられるだろうか。どちらを喜ばれるだろうか。100軒を言うのなら御父様は1000軒とも言われ5000軒とも言われた。その数字を御母様に示せば「ではそうしなさい」と言われないだろうか。中心者は相も変わらず食口の尻を叩き続け、首を傾げる目標を印籠を差し出すが如く叫び、訳の分からない事業に復帰した大切な資金を差し出し、意見のある者には中心批判という観念で苛め抜く。これが真の愛を掲げる家庭連合だろうか。その代表的位置に立つ中心だろうか。ピラミッド組織の統一教会がその使命を終え家庭連合という家庭の連合体となったにもかかわらず、組織は相も変わらずピラミッドで、その中心、トップという観念に捕らわれている。その意味での中心に誰がなっても混乱を来すだけであって、連合体としての代表という観念に変えるべきだ。例えばでいうとレストランはシステムで動く流通の卸しとは異なる。より創造的主人意識的な業態だ。それを無理にでも外的に一つにしようとすれば創造的主人意識的意志を殺いでしまい、レストランとしては成り立たない。一方で摂理があり、一方で現実がある。現場が常に現実に立っていて摂理からずれようとしているのではなく、現場の中に摂理推進の種があり芽が出ている。それを認めようとせず、組織の中心は常に摂理に立ち現場はそれに従うべき、という先天の旧態依然の認識がどれほど摂理を妨げているだろうか。その証拠に明らかに外に出てレストランを開いている食口の方が花開いているし軒数も多い。その摂理の理解も金儲けぐらいの低次元認識で、そんなものに人生を捧げて来たのかと思うといたたまれない。三大勝利権で基元節を超えた。超えたけれども、先天時代の亡霊が未だに闊歩している。

2016年5月19日木曜日

今日の想い 919

アダムとエバ本人は堕落して救世主を待ち望んだろうか。堕落の血統が人類歴史に刻まれていきながら何時の誰の時点で救世主を求めただろうか。ユダヤ民族が選民思想のもとで糾合されながら、キリストを待ち望んだ群れであることは旧約から覗える。しかしながら彼等はイエス様を救世主として迎え入れることはなかった。彼等が求めていた救世主像とは異なっていたからだ。それどころか彼らにとってイエス様は律法に反する教えを伝える反動者だった。クリスチャン達がイエス様の愛の教えを宣教しながら、キリストイエスの再臨を待ち望んだことは新約から覗える。統一食口は文先生を真の御父様といい再臨主だと信じているけれども、殆どのクリスチャン達は歯牙にも止めないし中には反キリストと叫んでいる者もいる。ユダヤ民族からみたイエス様が律法に反する者であったように、クリスチャン達からみた御父様はイエス様の愛の教えによって形作られた再臨主のイメージには全くそぐわなかった。ユダヤ民族もクリスチャンも、彼等の思い描き求めた救世主像、再臨主像は、本来のそれとは異なっていた。像、イメージとは何だろうか。堕落人間にとってイメージは主観的であり御都合的であることは間違いなく、イメージ自体に既に堕落の色合いが込められていると言っていい。しかし一方で人間はイメージを持つことなく求めることはできない存在でもある。求めない存在に対して相対することなどできない。たとえ救ってくれる存在が傍にいたとしても素通りしてしまう。人類は歴史を通して救世主のイメージに対する堕落的色合いを消してきた。御利益的なものを削ぎ落としていった。民族を導く王、全ての王の頂点に立つ王の王というイメージを捨てる必要があったし、再臨主は天から下る超越存在だというイメージを捨てる必要があった。私達食口はユダヤ民族やクリスチャン達のようにイメージを持って御父様を待ち望んでいたのではない。原理を受け入れることで植え付けられた原理的イメージは御父様の存在そのものだった。しかしそれは多分に人間御父様としてであったし、聖和された今人間御父様に代わる存在を求めている。それがある食口は御子女様であるけれども多くは御母様のはずだと思っている。アダムの失敗により人類は第二アダムを求め、第二アダムの全うできなかった使命を担う第三アダムを求め、今は第三アダムの勝利圏を相続した第四次アダムを探している。私達は本当に第四次アダム心情圏に立っているだろうか。今日の曇天の日のように天を遮られ、暗中模索しながら肝心の羅針盤である良心さえはっきりと掴み切れておらず、拠り所のない放浪者と化した食口達が霊的に流浪している。神人一体理想を完結しない限り、どのようなイメージであれ、どのような存在であれ、救い主を求めざるを得ない。御父様は私達に遺言書を残された。八大教材教本だ。このみ言葉こそが救い主だという観点に立ち、人間御父様に代わる霊的支柱をそれぞれの中に、家庭の中に、国の中に、世界の中に立てなければならない。今は待ち望んでいる時ではない。自らが主体的に能動的にこの霊的支柱を立てる時だ。中心がどこかにあるのではない。中心は自分の中に、家庭の中に、国の中に立てるものだ。第四アダムを待ち望みながら更に二千年を送ろうとするのだろうか。イエス様が天国はあなた方の中にあると言われたように、救い主は私達の中にある。み言葉による生命、み言葉による愛、み言葉による血統を私の中に見出し、それが救い主であり中心だ。