2018年6月1日金曜日

今日の想い 972

雨が上がり水面の霧が晴れても、内海の透明度は皆無だ。海面が大人しいだけに見えない海中の不気味さが際立つ。妻は三原の出身で、子供の頃はよく島に渡って海水浴を楽しんだようだが、私にすれば淀んだ沼に裸で入るのと変わらない。高校生の遠泳で内海に連れていかれるまでは日本海しか知らなかった。その時の私は泳げないのを理由に遠泳を辞退した。日本海は波は荒いが遠浅の浜も多く、何しろ内海のような不気味さはない。それが波の動きによる洗濯なのか波の白さなのかはわからないが、得体の知れない物を住まわせない気品がある。しかし気品だけでは生きていけないのであって、何がいるかわからない内海だからこそ多くの海産物も採れるし、人は内海の周辺に集まってくる。想像の力は混沌の中にこそ溢れているからだ。平山郁夫の絵と私の見る瀬戸内は極と極だ。彼は中近東の砂漠を多数描いている。砂漠の中をいくラクダの隊列という構図だ。瀬戸内の絵を描くようになったのは随分高齢になってからで、彼が故郷に帰り、故郷を描き、故郷を愛するようになった心境の変化はわからない。俗を寄せ付けない厳しい環境と、何でもありの瀬戸内の温暖な環境を彼はどのように認識したのだろうか。神に向かう自分、俗に向かう自分をどのように併せ持ったのだろうか。神に向かうのはアベルであり、俗に向かうのはカインだ。色の世界、欲の世界に向かうのを神は嫌うと思っているかも知れないが、アベルとカインが一つになる事で神は次元の異なる神になることを願われた。神様御自身が新たな御自身を認識することを願われたからだ。私は故郷に近いこの瀬戸内の近辺に居を構えるつもりだ。献身した立場でどこまでも突き進み、その状態のまま死を迎えるつもりでいた。しかし内外の様々な意志が作用して結局は故郷に帰る鮭となった。御母様が御父様を超えて立たれたように、私は献身した私を超えて立たなければならない。帰りの船を降りると、生臭い港の空気を腹一杯吸い込んでみた。

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