2018年6月10日日曜日

今日の想い 975

打たれて、打たれて、打たれ続けて、私はやっと傲慢で我慾の塊であることに気付かされた。私の妻はある時期を境に病に次ぐ病に苛まされてきた。それまでは健康そのものだったので、それが当然のことだと思い、受けるに足る条件のない一方的な祝福であったことに気付いていなかった。妻が病苦に翻弄され嘆き悲しむ姿を見ては、どうして、どうして私の妻に、と天に恨みを突きつけ癒してくれるのが当然の如くに祈り続けた。いや讒訴し続けた。苦しみ、悩み、祈る、といいながらその実天を恨むこの魂の作業を何度も何度も繰り返した。繰り返してはその恨みの度合は雪だるまの如く層を重ね、根雪の様に凝り固まっていった。祈れば祈るほど、信仰を重ねれば重ねるほど、平安とは程遠い荒れ狂う魂となり、愛の強さとは程遠い愛されない減少感に揺れ惑う精神欠如の幽霊と化した。私の祈りは祈りではなかった。それは呪詛に等しかった。私の信仰は真の信仰ではなかった。それは只の妄信に過ぎなかった。打たれて、打たれて、打たれ続けて、私はやっと謙虚という言葉の意味を知るようになった。今私は無暗に祈らない。感謝の念に裏打ちされない想いを抱いたまま祈らない方がいい。今の私は無暗に信仰を口にしないし語らない。神の摂理とは程遠い、我慾の染みついた歩みを摂理だと偽る私に気付いたからだ。変態と言われようが、Mだと言われようが、苦しみ痛みを甘受し、そこから逃げずに真っ直ぐに現実に立ち向かう真の私の創造こそが、長い長い先天時代の勘違いの歩みの中ですら学ばせていただいた、神様の私への真の教えだ。

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