2018年6月10日日曜日

今日の想い 974

神によって選ばれた存在だという選民意識が私たちの中に少なからずある。その意識自体は決して悪いものではないのだろうが、選ばれたという意味をこの世の上の立場にいると捉えてしまうと良い話ではない。この世はサタン世界だと言い放って切り捨てるのであれば、復帰の手掛かりをどのように掴むというのだろうか。私達は神によって高次元に引き上げられた存在ではなく、同じ肉体をもって同じ次元に存在している。どれほど訓読しようが、どれほど献金しようがやはり同じ次元に存在している。どれほど信仰歴を重ねようが相も変わらず堕落性に翻弄され続けている。ということは選民としての私達は一体何だろうか。同じ次元(位相)にいるのだから上から引っ張り上げる存在にはなれないとなると、高次元におられる真の父母の存在を告げる存在というのが私達への願いであり底辺の私達が選ばれた所以だ。お高く留まる選民意識という勘違いに認識を犯されたまま、献金も先祖祝福も、それによってより高い位置にという変な上昇志向、おかしな天国生活欲をかき抱いたままするものだから、恨みこそ強まれ霊的意味合いは薄れるばかりだ。現に生活であれ健康であれ祝福を受けて当然であろうに、この世と比べて貧困率なり罹癌率なり倍々に高いのはどう理解したらいいのだろうか。私達に問題が多いのは事実だ。なにしろ私達はこの世の底辺の存在だからだ。教会が廃品回収し、違法まがいの万物復帰しながら、それが証しとなって人々がこうべを垂れる行動となり得るか、否、私達が底辺の存在であることを当人である私達こそが認識するためだった。カルトまがいに扱われるのは何も霊感商法によるものではなく、私達自体が変人の集まりだからどう行動してもカルト扱いされる。幸運にもポアしろという指示は受けなかったが天の願いだと念を押されれば何でもやってのけただろう。負債に思う必要はないが、ただし条件がそこにはあって、一生をして為したことへの避難を受け取る覚悟と過去も今も未来も私心からではなく心情が動機となって行動しているという自覚があるかだ。人類が堕落して神様は奈落の底へ突き落された。神様を近く感じるとすればそれは底辺の人間だ。人類を地獄の底から支えてこられた神様こそその実体だからだ。私達が底辺の存在であるなら、へりくだってこの世から多くを教えてもらうべきだ。どれだけ神学論争に明け暮れても明日の糧にもならないし、所詮この世の知恵を必要とし論理を必要としているのだから、たとえ堕落社会あってもこの世から学ばなければならない。私達が本当に謙虚になるまではどこまでも打たれ続けるだろう。どうでもいい選民意識などかなぐり捨て、あまりの低姿勢に頭が下がると言わしめてこそ立つ瀬のある統一食口になれる。この世に対するすべてはそこからだ。

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