2019年1月26日土曜日

今日の想い 1036

今年は考えられないような大きなことが起こる。まさしくそうだ。それは南北統一だ。それも文在寅政権の左派民族主義による南北統一だ。レーダー照射がどうのこうのと言っている段階はとっくに過ぎている。照射してミサイルをぶち込む気満々であり、北のミサイルは全て日本に標準を合わせている。願うは早々に一発お見舞いしていただきたいくらいだ。そうでもされなければ日本は一向に目を覚まさない。あまりにも平和な時期が長すぎた。目を覚まして憲法改正、スパイ防止法制定、有事立法制定と決めねばならない法案を即座に通過させ、日本国の護りに全国民あげて意識を集中させるべきだ。在韓米軍が撤退する頃に腰を上げていては間に合わない。或る年の年頭に語られたように、このままでは本当に日本は五つに分断されかねない。日本食口も早々に身の振り方を考えなければならない。主の国を想い続けて来ただろうし貢ぎ続けてきた。ならば韓国に移住するのも一つの答えだろうし、分断されるかもしれない日本に留まり日本の霊的柱になるのもそれも答えだろう。どう決めるにしろ今までの様にアベルに言われたからというような他人事では決められない。日本が目を覚まさなければならないように、日本食口も目を覚まさなければならない。どう選ぶにしろ地獄を通過する覚悟のある者しか摂理には関われない。左派であろうとそれでもこの南北統一が摂理の主流なのか、それとも本来の南北統一ではないので分かれる支流として摂理の流れを分かれた両者に分担的に継承させていくのか、御父様がポロっと言われた、延長したとしても2034年には最終的に、、という言葉がこの東アジア情勢の危機を考えた時に脳裏に浮かんでくる。御母様が御父様をメシヤとして産みかえたというのが正しければ、母の国が父の国を主の国として産みかえたと言える状況もあり得る。

2019年1月23日水曜日

今日の想い 1035

信じていた大地が突然崩れ去り、私達は突然、大海の中に放り出された。大地とはすなわち御父様だ。地上におられた御父様を突然失って、何の準備もないまま混乱と混沌の荒ぶる大海に放り出された。ノアの洪水審判と同じように、大海審判として航海を進めて新たな大地を目指さなければならない。この航海にも確かな羅針盤が必要で、だから御父様は良心という羅針盤をそれぞれに用意させるよう良心宣言を通達されておられる。良心は親に勝り先生に勝り神様に勝るというみ言葉だ。摂理という潮流があり、摂理の流れに多かれ少なかれ関与してきた。或いは摂理の流れを航海していく何らかの船に乗ってきた。それは家庭連合という船であったり、家庭連合船団の一つであったりするわけだが、そこに乗船していれば確実に摂理の目的地に到達すると信じてそうしているはずだ。しかし羅針盤は私達の只中、良心にある。良心に従えばこそ家庭連合に乗船しているのか、或いは家庭連合を良心に従って方向を正そうとしているのか、しかし認識すべきは家庭連合は統一教会というピラミッド組織ではなく、家庭が集まった組合組織だ。要するにそれぞれの家庭が個々の船だということだ。はっきりしていることはそれぞれの良心に従って航海することで、それぞれの取る進路が異なるとしても、最終的には新たな大地を見出す航海となる。皆が皆画一的な道筋を取らざるともそれぞれの良心が神に繋がっているのだから必ずや摂理を結果的に勝利に導く航海となるはずだ。韓国の反日に異を唱えるように反御母様として旗を掲げる者達には異を唱えて当然かも知れないが、しかし摂理への天の働きかけの妙は複雑で何が薬となるか功となるかはその場その場ではわからない。

2019年1月16日水曜日

今日の想い 1033

文在寅政権は南北統一に向けて明確に駒を進めている。彼の中には打つ手打つ手の順序まで既に用意していて、日本に仕掛けるすべての罠は突発的に起こったものではなく、南北統一に向けて用意周到に切られたカードであることをみ抜かなければならない。日本にとって不幸なのは、反日がもっとも統一には有効であることと、どんなに日本にちょっかいを出しても口うるさいだけで日本は手を出せないし出してこないことを確信していて、好き放題日本に仕掛ける決意と、とことん日本を悪者にすることの覚悟はできていて何の躊躇もない。それはある意味腹の座った人物ともいえる。しかし日本は腰が引けていて政府も自衛隊も何もできない。政府は何をされようが遺憾ですとしか言いようがなく、自衛隊はやられてもやり返せず結局は逃げるしかない。魂の抜けた群れに成り下がった日本民族であって解体されるのは時間の問題だともいえる。天は自らを助ける者しか助けない。我が民族は我々で護るという覚悟のない群れに神は共にいない。言い分は日本が正しいのはわかりきっているが、正しい者が勝つのではなく腹の座った者の方が勝つ国際社会であることをわかっていない。御母様がどう思っておられるかはわからない。そして御父様の願われた南北統一の筋書きと同じかどうかもわからない。しかし左翼政権であれ何であれ南北統一への機運は最も高まっている。筋書きはどうであれ兎に角形だけでも統一させて、器に入れるものは後からという論理も当然成り立つ。問題は日本食口としてどういう立場を取るのか。アベル魂は、慰安婦でも日本の非を掲げたように、いわゆる徴用工であれそして今回の照射問題であれ日本の非を掲げるのは信仰なのだろう。平和ボケで何でも許される日本だからそんな立場を取っても居座ることは出来る。主の国を愛するというアベル魂に任せてしまえば、日本は解体してもいいということになる。私は摂理観からくる正しい正しくないという立場よりは愛する日本を立ててこそ愛は私の中で花を咲かせると思っている。それはアベル魂ではなくカイン魂だ。私はどこまでも摂理を知るカインの側だ。主の国を立てて当然という論理が立つなら、母の国を立てて当然という論理も私の中では立つ。御父様と言い分の異なる御母様に従うという論理が立つなら、韓国ではなく日本を立てるという論理も許される。南北統一が天の願いである以上、そして今の韓国が容北的かつ反日である以上、日本は遠からず解体される。しかしそれでも日本の側に私は立つ。

今日の想い 1032

イメージとして捉えている理想世界を壊す必要がある。人類一家族の言葉は神の理想として正しいが、捉えているイメージは壊して幾度も修正し直さなければみ言葉としての人類一家族理想には近付けない。言葉は与えられたけれども捉えているイメージは言葉との距離がある。言葉を理解するとは、イメージを壊し続け修正し続けて言葉にどこまでも近付けることだ。昔の私は受け取るみ言葉で短絡的なイメージ形成をなしてしまって、その権威に屈伏し従ってきた経緯がある。要するにみ言葉を受けて勝手に捉えるイメージに圧倒されたから、献身もし摂理の願いに応えるべく絶対服従してきた。復帰される世界は愛の世界だとしてもイメージとしては共産国家のような一党独裁か真の父母が立つ王政復古のイメージが強かったし、そのようなイメージを理想と捉えて摂理に歩む意志とした。しかしその理想社会のイメージは教条主義的ではあっても自由主義的ではないことに次第に気付いていく。愛の本質を捉えるとすれば人間に与えられている責任分担という自由配慮の域があればこそ問われるものだから、全てが取り決められている世界が愛の理想世界とはならないはずだ。人類一家族は家庭理想の世界化ではあるけれども、家庭には様々な家庭像があって祖父母がいて父母がいて子供がいるという決められた家庭像を誰もが受け入れる訳でもない。一夫多妻の家庭もあればシングルマザーという家庭もあるし、さらにLGBTの複雑さをどうするのかとなるとそれは神の願いではありませんと一蹴するしかなく、納得させられる論理も感情も私達の中には持ち合わせていない。教会はあまり触れたがらないが生まれ持った性への方向性として既にあるものだから、たとえ原理を受け入れるとしても複雑な問題であるのに、未だに教条的な縛りの域を出ない。今はそういった者達は切り捨てるしかなく私達の原理の理解ではこの問題に対して無力に近い。私達が天の心情を霊的血統として相続した群れであるなら、誰一人真の愛に触れずに救いから漏れる者を出すべきではないだろう。その為には私達の教会が教条主義から脱しない限り真の愛の群れとはならない。真の愛を享受する群れではなく、真の愛の開拓者であってこそ御父様に顔向けできる。教会内のごたごたに翻弄される暇があるなら、社会の様々な問題をどう解決していくべきか、そこに本腰を入れるべきだ。天国に入ろうが地獄に落とされようが、霊界がそういった教条主義なら霊界さえも真の愛で立て直すべきだ。

2019年1月11日金曜日

今日の想い 1031

朝日がさしてくる。朝日の柔らかい光が私の頬を赤く照らし、そして地上への活動を促す。愛の活動とは愛する戦いであり、犠牲が伴うのは当然で犠牲のない戦いはないし、生きる上での恩恵として受け取るすべては過去の霊肉の存在の犠牲の賜物だ。食物となる犠牲の上にこの生命を維持しているように、ひとつの生は数え切れない死の上に成り立っている。私達は地上では頂点に存在しているものの、そこにただ君臨していれば善しとされるのではなく、魂と霊の犠牲を供えることで霊的高次元の生命のために活かされる。神の願いに生きたのなら神に繋がって神に所属し、地を支配している霊的存在に委ねて生きたのならサタンの所属から離れられない。地上のどこに所属しているかが問題ではなく、その位置でどう愛する戦いを繰り広げているかが問題だ。祝福を受けた者にとっては祝福を受けたかどうかが問題ではなく、祝福中心家庭の位置で祝福圏を広げる為にどう戦っているかが問題だ。この朝日を胸いっぱい吸い込みながら地上の恩恵を享受し、感謝を愛に変えて一日の霊の呼吸を吐いていく。すなわち今日一日を通して愛する意志を差し出す。愛さない者に生命の尊さはわからない。犠牲を知る者しか莫大な犠牲の上に紡がれる生命の輝きは見えない。私は愛の実を味わうだけの破壊者か、それとも愛の種を撒いて育てる創造者か、どちらの立場に立っているかはあらゆる犠牲への感謝から犠牲への意志、愛する意志、為に生きる私を紡ぎだし差し出しているかどうかだ。

2019年1月8日火曜日

今日の想い 1030

2019年の船出だ。過ぎ去った2018年の航海をどう捉えるか。2018年は何処から出発し何処にたどり着いたか。2019年の航海に出ても同じように位置が把握できず羅針盤が働かなければ、摂理の本流から見て支流の更に支流の流れに留まったまま、神不在の時空を曖昧に彷徨うことになりかねない。それは全体摂理の視点には立てない、すなわち摂理に歩むその霊的恩恵を理解できず受け取れない。地上的には時間と空間を移動しているものの霊的には迷って方向性を失っている。世界的流れという潮流がありながらそれを捉えられず取り残されるように、霊界も含めた天宙的流れの潮流があるはずなのに、原理にしろみ言葉にしろ自分流に捉えた神や摂理のイメージで柔軟さを失い、その動向を受け取れないか無視したままだ。基本私達の理解は個人や家庭の問題課題があって、それに縛られて摂理に貢献できていないと思っている。しかし今の私はどう思っているかというと、支流から本流に合流するように、個人的家庭的問題課題と全体摂理とはリンクしていて、一概に今抱えている問題のせいで本流である摂理と無関係だとは言えない。意志あるところに道ありと言うように、愛する意志あるところに神の摂理ありと信じている。御父様が言われたように、天国に入籍できる自分になるより天国を建設する自分になるほうが神の願いだという思いを強くして、それでこそ前向きになれるし新しい年に希望を持って船出できる。一世から二世、さらに三世にどう引き継いでいくか、祝福をどう与えるか皆が悩んでいるが、実はそんなことを思い悩んでも神は働かない。愛するとは信じていることを押し付けることではないにも関わらず、愛の何たるかを学ばずに受け取るものをそのまま押し付けてここまできた。430数も先祖祝福もそれが押し付けられたものではなく、能動的な自らの愛する意志としての行動でない限り神は働かない。少なくとも親として子に対する想いや行動には神が共にあり働いているように、神が共にある、即ち摂理の本流を航海する2019年にしたいなら、愛する意志としての自分になることを先ず決意することだ。