2019年3月26日火曜日
個人的願望をふまえてこそ公的な責任意識は育まれる
後天時代に入ったということは蕩減のない時代になったということだ。その意味するところが何かというと、意志する自由を取り戻したということだ。先天時代は自己否定し御父母様から指示を受けた中心者の指示に従うのは当然であり、万物以下に陥った堕落した立場で、供え物に口なしという姿勢と行動は蕩減時代の在り様そのものだった。しかし後天時代に入って自由を得たにも関わらず、先天時代の意識をそのまま続けていれば自由を得た意味はなくなる。姿勢や行動は、環境がすぐに変わるわけでもないのですぐ変えようと思えば無理が生ずることは理解できるが、しかし意識改革をせずに先天時代の意識をそのまま続けるのは天の願いではない。ビジネスをやっていて強く感じることは、外部の普通の従業員に比べて食口は意欲が欠けているという現実がある。責任ある位置に立たせようとするとたとえ給料が高くなるとしても責任を取るというような煩わしいことは受けたくないと口にする。しかし他の従業員にそういう話をすると、いくら貰えますかという話になる。より責任を取るということはより公的に立つということだけれども、しかし食口の多くはお金への欲もなければ出世したいという欲もない。手広くビジネスを広げているある先輩の話だと、五つの部門の店のうち食口は一人だけで残りの四つは外の従業員だと言っている。食口にはそれだけの力がないということらしい。より高い位置で公的な願いに対する情熱を持てるかどうかは、個人的な位置でしっかりと願いがもてるかどうか、すなわち欲が持てるかどうかと関係性がある。公的意識の高いどんな事業家も最初はお金を儲けたい、目立ちたい、社会的地位を得たい等々の強い願望があって、事業を大きくしながら個人的願望から国への貢献だとか世界人類への貢献へと公的願望を備える自分へと自分を育てている。個人的欲はことごとく悪だと教えられてきた私達は、ビジネスをやる上に於いてその基が既に狂っている。だから形だけビジネスを広げようとしても個人が徳を持てるよう成長していく基がないのでことごとく崩れ去る。私達の希望は後天時代に入って蕩減のない時代圏を生きているという事実だ。それは最初に言ったように意志する自由を取り戻したということだ。責任の意味を理解するにはその表裏一体にある自由の意味、意志する自由を理解しなければ、責任は数字で表されるノルマ以外の何物でもない。たとえノルマを達成するとしても、次につながる希望も発展的要素も含まない形骸化した数値結果しか残らない。
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