2019年3月3日日曜日

意志として照らし出す

罪という問題は論理では言い表せない霊的な概念だ。よって罪からの救いという問題も論理を超えた霊的概念と言える。神の存在も霊界の存在も原理という論理で理解はしたけれども、神とと共に生きる、あるいは霊的無知から解放され霊的意味を捉えて生きるというのは、論理をどうこうするのではなく信仰という意志を持たなければ意味をなさない。神の存在や様相に関する説明をいくら紐解いたところで理解がそのまま意志とはならない。意志あるところに神は働くのであり、我救う者を神もまた救う。私たちはこの意志という光を照射する存在であり、意志の光を照らして初めて神様の実子としての創造の業が為せるようになる。受動的惑星存在から主体的能動的な恒星存在となってこそ地球紀に生きる人類としての目標であり神の願いが成就される。しかし意志の光を照らし出す存在と自動的になるのではなく、神様が光あれと意志されたそれまでの路程をそれぞれで周到する必要がある。それが御父様が語られる絶対信仰、絶対愛、そして絶対服従だ。もちろんそれにも意志が必要であるが旧約と新約、そして成約を通して霊的な道筋としての意志は地上に降ろされている。アブラハムの信仰、イエス様の愛、そして真の父母の服従だ。絶対服従という言い方は奴隷を想起してしまうが、神様の人類に対する設計、ブループリントに従う意味での絶対服従であり、それは神様を親とする人類一家族理想を失わないという意味での絶対服従だ。それゆえに御父様はどれほど理想を打ち砕かれる場面にあっても神様の親としての悲痛な想い、人類復帰への執念をして理想を掲げ続けたのであり、まさに神の理想に対する絶対服従だ。その基台の上にあって、もし私達が恒星存在としての意志を持てないとするなら旧約新約成約の基台は崩れてしまう。第四次アダムとしての私達の使命がどれほど大きいかを認識しなければならない。

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