2019年3月2日土曜日

平面的信仰から立体的信仰へ

どんなに体に良いものだとしても、過剰に摂取すれば毒となる。逆に普通に摂取すれば毒となるものも、量や摂取の方法如何では薬となる。よって善と思えるものも慣れてしまって何の感情も抱かなくなれば悪の発露となるし、悪と思えるものもその逆風で力を得て善に昇華させることができる。清平の先祖解怨と先祖祝福も本当に解怨され祝福を受けているのかと言い寄ることもでき不信を抱くこともできるが、その自分を超えて解怨してもらうのではなく自分の責任に於いて解怨するのであり祝福もそうであって、そうなると清平は先祖解怨祝福の条件的、象徴的なものとして意味を成し光り輝く儀式の場となる。そこに清平摂理を疑う余地はなくなってしまう。かといって清平に行くことで全ては解決して頂けるという他力本願と盲目信仰に留まっていれば、清平はゆくゆくは恨みとなるかも知れない。教会の分裂も、独生女信仰もそういったことと同じように、御家庭を見れば既に勝利圏は嘘偽りであったと結論付けることもできるし御父様を否定する似非原理だと本部の前で言い寄ることもできる。しかし現実を霊的にどう捉えるかはそれぞれであり、御子女様が別の道を行かれることも御父母様の勝利圏を否定するものではないと理解もできるし、御母様の在り様も御父様を否定したものではないという理解に立つこともできる。問題は否定的結果を認めてしまう自分であってサタンに屈していることを自覚する必要がある。ただ盲目的に信じろと言っているのではなく、これらのことを通して自分が一段階も二段階もより霊的知に至る課題としているかどうかだ。勝利圏への理解を平面的なものから立体的なものへと次元を上げられるかどうかだ。ただ盲目的に信じるのであれば最悪だとしても、現実を通して後天開闢時代を生き抜き牽引していく新しい意識を勝ち取ることができれば、サタンに屈したのではなく御父母様の勝利圏をより本質的に相続したと言えるようになるはずだ。

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