2019年9月30日月曜日
今日の想い 1042
第四次アダム心情圏時代は皆が人類始祖アダムとエバだ。私を頂点として一方では先祖を遡りながら一代一代霊界祝福していき、一方でも私を頂点として子供、そして孫へと三代圏を初めとする地上界の祝福氏族を増やしていく。霊界から先祖達の協助を受けてはいるけれども、先祖に対しては私は親の位置で接し教育する必要性があることを忘れてはならないし、それは地上界の後孫に対するのと同じだ。先祖祝福は出発であって祝福を与えたからと言って教育もせずに放っておいていいはずはない。祝福を与えたから病気が治るだとか子供が正しい道に歩むようになったり夫婦仲がよくなる、などという御利益信仰は与えた祝福を蔑ろにしている。結果そうなることもあるのだろうがそれを期待して祝福に精を出すのはどうだろうか。信仰の基本は自分がいかに変われるかであり、特に後天時代では自分の良心に従う自分にいかに変われるかということだ。相手に地獄の怖さや不安解消のニンジンを目の前にぶら下げて誘うのではなく、私に接することで自分が変わりたいと思えるように対することだ。地上に存在しない先祖をどう教育するかだが、実は私の中に血の在り様を通して先祖は存在している。と同時に血の在り様が私の在り様となり周囲の人達も周りの環境圏も私の在り様の写し鏡のように現れる。現実に起こる事の何一つ偶然ではなく必然として起こっている。先祖にすれば生きて残してきた課題を私を通して、或いは後孫を通して解決しようとしている。先祖の教育はみ言葉を読み聞かすのではなく、私の生き方に対する意識と意志を通して教えている。一生懸命私の人生観を生きることで、一生懸命教育している。
2019年9月29日日曜日
今日の想い 1041
献身して間もないころは毎日万物復帰に明け暮れていたが、これほど苦痛で地獄を見る日々は後にはなかった。最初のうちは訓練だと言い聞かせて真面目にやっていたが、それが3年も4年も続くと耐えられなくなってくる。もし自害が罪でなければひょっとしたら、と言えるほどだ。イメージできる地獄があるとするなら当時の日々の再現こそが地獄だ。事実何度も再現体験を夢で見せられていて、目覚めたときの脱力感は嘔吐しつくした時のそれと同じだ。あの体験は自分にとっては自己否定というより自我の抹殺だ。あの日々を通して神様の事情を知るとなると、自己を喪失された神様だとしか思えない。地獄をかいくぐって初めて天を求めることができると思えばこそ何とか越えられた。天国はわからないが地獄は経験できる。地獄から抜け出したいという意志が逆説的に天を求める力になる。行きたい天国があると思っている食口は多いけれど、天国は築くものであって行くところだと思わない方がいい。本当は皆ある程度わかっているけれども、それでも帰依していた信仰観は良くも悪くも父母様次第で、その口から最後通告を受けなければ自分の意志は捨てたままだ。私が訓練されたことは、今まで徹底して救いの手出しはされず、天からの慰労の欠片も内面に感じたことはない。この道に入る時聖霊体験を覚えたが、それ以外は一貫して無視し続けられた。涙ながらに祈る姉妹を見て異次元の存在のように思えた。地獄の底では涙も出なかった。その無視され続けた訓練こそが後天に生きる新しい私の土台になっている。今でこそ教条主義を否定しているが、実のところ自分こそが恐れで信仰を繋いできたという教条主義者そのものだった。しかし恐れから行動しても内的にも外的にも得るものはなかった。恐れは何かに主管されてそうしなければと思うのであって、それは自分の意志ではなく何か他の意志でしかない。自らの意志で行動しなければ何も得られない。
2019年9月27日金曜日
信仰から認識へ
本当に正しいと自分が思えるものに付き従っているのか、同じ選択をしている同志を周りに見ることで正しいはずだと納得し安心しているのか、はたしてどちらだろう。どちらにしても今の状況では正しい正しくないという判断の基準さえ揺れているのだが、、。もはや穴だらけの先天の信仰という器をどれほど後生大事にしても、これからはそれでは立ち行かなくなる。時代に合わない信仰は認識には至らない。妄想に終わってしまう。私の御母様への内的態度を御父様へと同じ態度だと認識していると食い違ってくる。清平信仰は先祖の血統という縦的な認識に、母方父方、またその母方父方というように横的な関係性を組み入れて自分を頂点とする三角形血統を認識させている。先祖を遡って行くというように時間の方向性も逆認識だが、それと共に線から面へ向かう認識でもある。本来、アダムとエバを始点とする一本の時間の流れの先端の存在が私だという認識のはずが、清平信仰は逆を意識させている。どちらが正しいとかどうとかという問題ではなく、起点をどこに置くか、方向性をどうとるかによって異なるということだ。私の血を遡って行くとどこまでも末広がりになるが、始点がアダムとエバのみならある地点で収縮に向かわなければ辻褄が合わない、などという論理は実のところ意味がない。先ず真の父母だけが肉的父母ではなく肉的父母は山ほどいるように、アダムとエバが唯一無二の肉的父母かどうかを信仰の為の課題とするのは霊的には無意味だからだ。ノア家庭だけが洪水審判後の地上に残った肉的存在だというのも同じように無意味だ。清平信仰は私の血の中に縦的因縁のみならず横的因縁を見るという意識を組み入れた。縦的な御父様に対して横的な御母様というのは、霊的認識の広がりにおいても革命的だ。信仰に限られていたものが認識という地上化現実化に向かうと見えなかったものが見えてくる。清平信仰が清平認識に至るかどうかは食口にとって霊的に覚醒できるかどうかの境目だ。御母様の言われる論理、御母様に対する感情は私のような一世には難しい側面はあるが、清平が新しい霊界認識の入り口であり門だと気付いた者は御母様を別の目で見て異なる認識を得ているはずだ。
2019年9月19日木曜日
一秒間で世の中が変わる
金の価格は一時上がり調子だったが、ここにきてまたいくらか下げている。FRBが金利を上げ控えたことが大きな要因だろう。それでもこの一年はオンスで300ドルも上げている。上がった下がったというのは基準にするものがあってこそで、誰もが認識している基準が基軸通貨であるドルだ。株にしろ不動産にしろ各国通貨にしろ、また金が代表するコモディティにしろドルで表される時点でドルを基準にしていることがわかる。リーマンショック当時の株価に比べれば今の株価は3倍に値上がりしているが、どうみても会社の規模や売り上げが3倍になったという話ではない。株価の上昇はQEと呼ばれる3回の量的緩和、すなわち金融政策としての4兆ドルにも及ぶバラマキと直結していて、GDPが20兆ドルそこそこの経済に2割の水増しをした格好だ。そしてその4兆ドルが株に流れ10倍20倍のレバレッジを掛けられて取引される。今の株価は会社の実態経営とは別の思惑で動いている。ようするにバブルだ。実はドルはその価値を失い続けており、既に価値の基準にはなり得ない。ようするに金が上がったのではなく、金が既にドルに代わる価値の基準であって、ドルは実のところ金を基準にすると下がり続けている。どこまでも紙切れに近づいている。そして不安要素がドルへの信用を一滴でも超えれば、なし崩し的に通貨不安は爆発し通貨の紙切れ化が現実となる。先天から後天への地上的な変化は先ず経済に表れる。それを見越して金を初めとするコモディティに変えておくのも一つの手だが、かといって金を買い漁っても世界経済が収縮し社会基盤が崩れる混乱から逃れることはできないだろう。ドルに代わって信用のある何らかの世界通貨が現れない限り社会インフラも生活インフラも極めて不安定で限定的になるからだ。新しいいくつかの世界通貨候補は先ず金兌換通貨としてやり取りされ、その中から基軸通貨は出てくるだろうが、もちろん国の覇権が大きく関わってくるのでそう簡単には出てこないはずだ。御父様が「平和の主人血統の主人」で冒頭に話された内容、一秒間で世の中が変わることがわかっていない。それは食口達に特に言及されていることで、先天時代と同じ意識、同じ信仰観、同じ内的事情から抜け出せないでいる。既に時代は変わり霊界の様相も変わっている。食口は先天を引きずっているけれども、若者達の中には霊的感性を鋭くし時代を先取りしている者達がいて、天の運勢は彼等と共にある。イエス様に背を向けるユダヤ人がいて、御父様に背を向けるクリスチャン達がいて、そして先天時代に埋もれたまま後天時代の光に背を向ける食口達がいる。
今日の想い 1040
関係性を維持しておくという必要性は感じているが、かといって今の組織に自分を委ねてしまうことは善しとしない。教会は教会で、ビジネスはビジネスで、それぞれに中心者はいるが、それはまとめ役であって意思決定存在であったり帰依すべき存在という中心ではない。そんなスタンスだから立てられた中心者もやりにくいとは思うが、しかしビジネスの中心者を決める時、私ははっきりと、これからは組合のまとめ役としての中心であって意思決定はそれぞれの長が取るべきだと話した。殆どは私が何を言っているのかわからないという反応でその場で何の意見もでなかった。ある者は私を冗談交じりにサタン呼ばわりし、私は愛想笑いで応えるしかなかった。皆は今やっていることそれ自体が摂理で、それに殉じることがみ旨だと信じ切っている。信じ切っているけれども、かといって目標を御題目として唱えるばかりで実績は伴っていない。この世的に言えば与えられた位置でマネージメントは辛うじて為しているが、もっとも必要なそれぞれのビジネスをどうしたいのかというオーナー意識に欠けている。原理的にいえば本当の摂理が何で、今ある位置からどう牽引して摂理の願いに応えていくかという主人精神がないからブループリントもない。ビジネスも教会と同じで、先天時代の意識をひきずったまま抜け出せなくて後天時代の入り口すら見いだせないままだ。人間の意識がこれほどまでに凝り固まり柔軟性に欠けるのかを思い知らされた。では自分だけで新しい信仰観、摂理観による歩みを踏み出していけるのかというと、個人で自分の信じるところをやっていけばいいというような生易しいものではない。自分の感情をいうと、蚊帳の外のような空気から逃げ出したいが、しかしここで関係性を切ってしまうことを私の良心は許さない。
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