2019年9月29日日曜日

今日の想い 1041

献身して間もないころは毎日万物復帰に明け暮れていたが、これほど苦痛で地獄を見る日々は後にはなかった。最初のうちは訓練だと言い聞かせて真面目にやっていたが、それが3年も4年も続くと耐えられなくなってくる。もし自害が罪でなければひょっとしたら、と言えるほどだ。イメージできる地獄があるとするなら当時の日々の再現こそが地獄だ。事実何度も再現体験を夢で見せられていて、目覚めたときの脱力感は嘔吐しつくした時のそれと同じだ。あの体験は自分にとっては自己否定というより自我の抹殺だ。あの日々を通して神様の事情を知るとなると、自己を喪失された神様だとしか思えない。地獄をかいくぐって初めて天を求めることができると思えばこそ何とか越えられた。天国はわからないが地獄は経験できる。地獄から抜け出したいという意志が逆説的に天を求める力になる。行きたい天国があると思っている食口は多いけれど、天国は築くものであって行くところだと思わない方がいい。本当は皆ある程度わかっているけれども、それでも帰依していた信仰観は良くも悪くも父母様次第で、その口から最後通告を受けなければ自分の意志は捨てたままだ。私が訓練されたことは、今まで徹底して救いの手出しはされず、天からの慰労の欠片も内面に感じたことはない。この道に入る時聖霊体験を覚えたが、それ以外は一貫して無視し続けられた。涙ながらに祈る姉妹を見て異次元の存在のように思えた。地獄の底では涙も出なかった。その無視され続けた訓練こそが後天に生きる新しい私の土台になっている。今でこそ教条主義を否定しているが、実のところ自分こそが恐れで信仰を繋いできたという教条主義者そのものだった。しかし恐れから行動しても内的にも外的にも得るものはなかった。恐れは何かに主管されてそうしなければと思うのであって、それは自分の意志ではなく何か他の意志でしかない。自らの意志で行動しなければ何も得られない。

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