2019年9月27日金曜日
信仰から認識へ
本当に正しいと自分が思えるものに付き従っているのか、同じ選択をしている同志を周りに見ることで正しいはずだと納得し安心しているのか、はたしてどちらだろう。どちらにしても今の状況では正しい正しくないという判断の基準さえ揺れているのだが、、。もはや穴だらけの先天の信仰という器をどれほど後生大事にしても、これからはそれでは立ち行かなくなる。時代に合わない信仰は認識には至らない。妄想に終わってしまう。私の御母様への内的態度を御父様へと同じ態度だと認識していると食い違ってくる。清平信仰は先祖の血統という縦的な認識に、母方父方、またその母方父方というように横的な関係性を組み入れて自分を頂点とする三角形血統を認識させている。先祖を遡って行くというように時間の方向性も逆認識だが、それと共に線から面へ向かう認識でもある。本来、アダムとエバを始点とする一本の時間の流れの先端の存在が私だという認識のはずが、清平信仰は逆を意識させている。どちらが正しいとかどうとかという問題ではなく、起点をどこに置くか、方向性をどうとるかによって異なるということだ。私の血を遡って行くとどこまでも末広がりになるが、始点がアダムとエバのみならある地点で収縮に向かわなければ辻褄が合わない、などという論理は実のところ意味がない。先ず真の父母だけが肉的父母ではなく肉的父母は山ほどいるように、アダムとエバが唯一無二の肉的父母かどうかを信仰の為の課題とするのは霊的には無意味だからだ。ノア家庭だけが洪水審判後の地上に残った肉的存在だというのも同じように無意味だ。清平信仰は私の血の中に縦的因縁のみならず横的因縁を見るという意識を組み入れた。縦的な御父様に対して横的な御母様というのは、霊的認識の広がりにおいても革命的だ。信仰に限られていたものが認識という地上化現実化に向かうと見えなかったものが見えてくる。清平信仰が清平認識に至るかどうかは食口にとって霊的に覚醒できるかどうかの境目だ。御母様の言われる論理、御母様に対する感情は私のような一世には難しい側面はあるが、清平が新しい霊界認識の入り口であり門だと気付いた者は御母様を別の目で見て異なる認識を得ているはずだ。
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